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私の被爆ノート

兄を捜しに焼け野原へ

1996年10月25日 掲載
木下 八重(68) 爆心地から約1.8キロの長崎市文教町で被爆 =島原市新町1丁目=

当時、諫早市の青年師範学校から、現在の長崎市文教町にあった兵器工場に動員されていた。九日朝、ボーリング盤のドリルがだめになったので“精密室”という部屋に、換えをもらいに行った。

その時、ピカッという光、音―。すべてがワーッと一瞬に殺到して、打ちのめされたように感じ、倒れた。原爆と知ったのは十日ぐらい後だった。暗く、閉ざされた小部屋にいたので、助かったのだと思う。

室外はすべての物が散らかっていた。その中からトタンのような板を拾ってかぶり、逃げた。人がたくさん倒れたり、右往左往して「助けて」と叫んでいた。

友達の名を呼んだが返事はなく、だれも自分のことだけで精いっぱいだった。この時以来、行方が分からない同級生も多い。

私は無我夢中で道の尾まで走り、翌朝、満員の列車にぶら下がって諫早の親類宅にたどり着いた。しかし、この日の夕方には、西有家町の実家から駆け付けた父、叔父と一緒に再び長崎へ向かった。長崎大付属医専にいた二歳上の兄・四郎の行方が分からなかったためだ。

四郎は四男で、兄弟の中で、私は一番好きだった。体が弱かったがとても優しい人で、医専に入ってからは背もすらりと伸び、学帽がよく似合ったのを覚えている。

十一日未明、到着した長崎はまだ至る所で火が燃え、熱気と物の焼けるにおいが立ち込めていた。兄は西山の下宿に帰っておらず、私たちはそこで眠れぬ夜を明かして、みそ汁一杯を飲み大学へ向かった。

掲示された生存者名簿には兄の名があったが、構内にはいなかった。教授の母親だという品のいい老婦人と若いお嫁さんが、泣きながらお骨を焼いていた光景が忘れられない。大学でお昼を食べる、と持って出た米二合が、なべに焼き付いていたそうだ。

焼け野原に全身焼けただれた死体や、苦痛で跳びはねながら息絶える人の姿があふれていた。学生が避難したと思われる場所を市内はもちろん、佐世保まで二日間かけて徒歩や汽車で捜した。兄はとうとう見つからなかった。私は疲れ切り、体重が二十七キロになっていた。

後年、字は違うが名前の読みが同じ人がまつられていると知らされ、そのお骨を実家の墓に納めた。多くの知り合いが被爆後の短期間に亡くなり、私は四十年間、時折襲う頭痛に苦しめられた。心臓が強かったはずの父も四十五年に弁膜症で亡くなった。焼け野原で無数の死体をひっくり返して兄を捜した時、放射能にやられたのではないかと思っている。
<私の願い>
原爆はこんなにひどいものだった、二度と繰り返してはいけないと、ずっと語り伝えていきたい。今の若い人に知ってもらいたい。これからという人がたくさん亡くなった。私も原爆と空襲で、もう、何度も死んだ気がする。だから生きている間は核廃絶と恒久平和に向かって、人の役に立っていきたい。

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