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私の被爆ノート

「どうせ私も…」死を覚悟

1996年10月17日 掲載
岩本ヤスエ(65) 爆心地から約3キロの長崎市伊良林1丁目で被爆 =長崎市平野町=

当時、活水高等女学校の三年生で、長崎市飽の浦町の三菱重工長崎造船所に学徒動員されていた。八月一日の空襲で造船所は壊滅的な被害を受け、多くの工員さんが亡くなったのを目の当たりにした。あまりの悲惨な光景に感情がまひしたのか、「怖い」とか「かわいそう」という気持ちは起こらなかった。「どうせ私も死ぬのだから」と覚悟していたかもしれない。

八月四、五日ごろだったか、米軍機から降伏勧告のビラがまかれ、それには「八月九日灰の町」と書かれていた。九日にまた空襲があるのだ、と思った。

造船所に行っても仕事がなかったので九日は両親と伊良林一丁目の自宅にいた。突然、目のくらむような閃光(せんこう)と熱風、地震のような揺れがあり、障子や雨戸が吹っ飛び、家具が倒れてきた。

しばらくして落ち着いてから外に出てみると、浦上方面から避難してきた人たちに出会った。肉がただれ、ぼろ布のように垂れ下がった人、炭のように真っ黒になった人もいた。それが原爆によるものだとは知るよしもなかった。

被災者から「浦上は地獄だ」と聞いて、当時、城山町に住んでいた母方の叔父一家を捜しに被爆直後の原子野を父と一緒に歩き回った。

叔父夫婦には十四歳の男の子と、十二歳と十歳の女の子がいた。みんな取りあえず無事だったが、十二歳のいとこが爆風で倒れた戸棚で足を骨折するなど重傷だったし、被爆後の混乱もあり、十一日にそのいとこを連れて母と南高有家町の親類の所に疎開することになった。

汽車の出る道の尾駅までは歩いて行った。途中、がれきの山と化した浦上周辺にはあちこちに黒焦げの人や動物の死体が転がり、猛烈な異臭が辺りに漂っていた。防空壕(ごう)も死体だらけだった。やけどで動けず、水や助けを求める人たちもいた。死体よりも生きている人を見る方が怖かった。

いとこは十四日に疎開先で死んだ。長崎の私の家でも十六日に十歳のいとこが、十七日には叔母が相次いで亡くなった。叔母は死を予感していたのか、亡くなる前の日に「おかげで畳の上で死ねます」と父にお礼を言ったという。

その父も二十一年に亡くなった。それまで病気一つしたことがない父だったが、原爆の後遺症が原因だったと思う。

疎開先で私も発熱、下痢、おう吐など原爆症特有の症状に見舞われた。一週間ほどで快方に向かいはしたが、その後数年は体の不調が続いた。骨の変形が原因の腰痛には今も悩まされている。
<私の願い>
今年の活水中・高校の平和祈念集会で初めて被爆体験を人前で話した。戦争のような極限状態の中では感情がまひしてしまう。その怖さを若い人に分かってもらいたかった。被爆は悲しい思い出だが、いつまでもおん念を残しては真の平和は訪れない。ただ、戦争の悲惨さだけは語り伝えていきたい。

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