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私の被爆ノート

放射能下 同僚捜し回る

1996年10月11日 掲載
鈴木 好長(69) 飽の浦町で被爆=対馬厳原町桟原=

当時、長崎市飽の浦町にあった三菱長崎造船所の機械工場で働いていた。工場は大きな建物で、二階に書類を提出しに行った時だった。突然、ピカッと外が光り、技師が「しょうい爆弾だ」と叫んだ。反射的に床に伏せた。今までに体験したことのないようなものすごい爆風が吹いた。

工場は壁が壊れ、柱だけになっていた。何が何だか分からぬまま外に出、敷地内にあった荷物運搬用の車両が通るトンネルの中に数十人で避難した。恐怖感でいっぱいだった。今のは普通の爆弾とは違う。飛行機の接近する音も聞こえなかったし、空襲警報の発令中でもなかった。理解できない異常事態に放心していた。やがて空が暗くなり、雨が降ってきた。それから対岸の県庁辺りが燃え出したのが見えた。火は周囲に広がっていった。港に係留していた小舟にも火が付いた。そんな様子をぼう然として見ていた。

翌日から会社の指示で、浜口町の分工場に一週間救援に行った。分工場は少し前に工場の機械を移していた所で、報国隊として働いていた女学生もそちらに移っていた。そこは悲惨なありさまだった。機械に寄りかかったまま骨と化した何体もの遺体。水槽に飛び込んだ遺体もあった。

助かった同僚はいないか、とにかく辺りを捜し回った。ようやく金比羅山のふもとで、技術指導をしていた班長や女学生五、 六人と再会した。体のけいれんに苦しんでいて、「水を下さい」と言われても、あげる水がなかった。手を貸すすべがないのがつらかった。

大学病院の近くでは工長の佐藤さんを助けた。生きてはいたが放心状態で、なぜか旭町の家とは反対方向にいた。体を戸板に乗せて家まで運ぶと家族は喜んでいた。大したけがではなかったのに、数日のうちに亡くなった。

こんな悲惨な情景を、翌日も翌々日もたくさん目にした。浜口町で見掛けたおじさんは、朝は生きていたのに帰りは亡くなっていた。仲の良かった友達も城山の寮で焼け死んでいた。

八月二十二日ごろ対馬へ戻ってから、二週間ぐらい熱とたんが続いた。原爆投下直後に放射能でいっぱいの中心地付近を歩き回り、大勢のけが人を扱ったからだと思う。
<私の願い>
核兵器は軍人だけでなく一般住民も無差別に殺す残虐な兵器。たった一発で人も建物も失うだけでなく、後にも残る苦しみをもたらす。体験していない国の人は分からないかもしれないが、一日も早く全世界から無くなってほしい。

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