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私の被爆ノート

地獄を垣間見た

1996年10月3日 掲載
田川 清光(77) 竹の久保町で被爆

当時は特設長崎地区警備隊の衛生兵で、けが人の治療などをしていた。「あの日」、竹の久保の伝染病院に入院中の妻を見舞い、近くの実家に立ち寄った時。突然、目の中に稲妻が飛び交うような強烈なせん光が走り、崩れてきた家の下敷きになった。

何とか抜け出した。幸い大きなけがはない。するとあちこちから「助けて…」という女性の叫びが聞こえる。がれきに押しつぶされ失神しかけた妹を必死で助けていると、伝染病院に付いた火が、風にあおられ近づいてきた。隣家は既に炎に包まれ、中から女の子の「助けて!」という絶叫。半狂乱で猛火に飛び込もうとする母親-。妹を助け、防空ごうへと逃げた。

市内一円を焦がす炎と煙で、真昼なのに夜のように暗い。やがて浦上の方から、たくさんの人がよろよろと歩いてきた。ほとんどの人が全裸。唇が溶け、真っ黒い顔に白い歯がむき出し。体からはげた皮膚がぶらぶらと垂れ下がり、飛び出した眼球を手で押さえている。「熱い、熱い」「水、水」とあえぎながら…。

救助隊を呼ぼうと、大通りへ走った。浦上駅前は文字どおり火の海。死体が燃え、熱風がカッと吹き付け、火が追ってくる。「このままでは死ぬ」と思ったとき、「助けてください」と手をつかまれた。重傷で動けない老婦人がいた。気づいたら、その手を振りほどいて逃げていた。心の中で「すまん、許してくれ」と何度も謝りながら駆けた。

翌日から救護活動に奔走した。負傷者の傷はただれ、小さなウジ虫が無数に食い入っていた。傷を洗いウジ虫を取り除くと「楽になった」と喜んだ。助かる見込みのない人も多かったが、「助けてやって。お願いします」とすがる家族の顔を見ると、診ないわけにはいかない。けが人は無数にやって来る。手持ちの薬品が尽きると、赤十字のマークを隠して逃げた。

あのころは恐怖の連続。「こんな無差別殺傷は許せない。見たままを記録に残さねば」と思い、昭和四十六年に手記「炎の中で」を自費出版した。図書館には置いていると思う。当時の実態を詳しく知りたい人は読んでほしい。
<私の願い>
本当の地獄を見た。当時の惨状をありのままに伝え、戦争を美化してはいけない。問題になっている新しい原爆落下中心碑は、きれいな服を着た女神。あの日、あの被爆者たちの中に、そんな人はいなかった。何か死者を冒とくしている気がしてならない。

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