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私の被爆ノート

死んだと思った妹が…

1996年9月26日 掲載
一ノ瀬志を(75) 被爆3日後に入市、妹の無事を確認した =佐世保市広田3丁目=

当時勤めていた佐世保市の旧海軍軍需部で長崎原爆投下の一報を聞いた。「妹たちは大丈夫だろうか」。被爆の三日後、長崎の家族の安否を確かめるため、復旧した長崎までの汽車に飛び乗った。

当時、二十四歳。長崎市で育ったが、昭和十九年、佐世保市に住む伯母の養女となり、移り住んでいた。長崎市片淵町の家族は義母と妹三人、弟一人。「ものすごい爆弾」「浦上地区の被害がひどい」と聞いた。片淵の家は大丈夫かもしれないと思ったが、三菱長崎製鋼所(現在の茂里町一帯)に勤める二番目の妹のことが特に心配だった。実家に電話はなかったし、実際に行って確かめるしか方法はなかった。

「あの子はもう生きてはいないかもしれない」。半ば絶望的な心境で乗り込んだ汽車の道のりはとても長く感じられた。追い打ちをかけるように車窓から見た長崎の風景は「草一本生えていない焼け野原」。変わり果てた故郷に唖然(あぜん)とし、頭の中は真っ白だった。

どこで汽車を降りたか、片淵までどうやってたどり着いたか覚えていない。しかし、ひどいやけどやけがに苦しむ人は見なかったように思う。

片淵の家は被害に遭うことなく立っていた。近くまで歩いて行き玄関の方を見ると、死んだとばかり思っていた妹がそこに立っていた。妹も姉が来るとは思わなかったらしく、お互いしばらく口がきけず、驚きとうれしさでいっばいだった。

「あなた生きてたのね」と話しかけると、「わたしはお昼からの勤務だったから助かったのよ」と妹。同じ工場で働く近所の人は午前中の出勤だったため亡くなったという。幸い家族は全員無事だった。

家には一晩泊まって佐世保に帰ったが、家族とどんな話をしたかは覚えていない。ただ佐世保空襲で佐世保の家を焼け出され、着る物も履物もなく、飛ぶように逃げ回ったのが原爆の約一カ月半前。余程ひどい格好をしていたのか、実家でかすりの上着ともんぺをもらったことだけは覚えている。

佐世保へ帰る車中、けが人が多かったような気がするが、これも記憶が定かではない。(佐世保)
<私の願い>
戦争は二度といや。核兵器もこの世の中から消えてほしい。戦争中は食べ物もなく、子供たちが「おなかすいた」というのを聞いても涙が出た。戦争をなくすのはできないことではない。国と国のけんかをやめること、それだけではないですか。

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