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私の被爆ノート

今も耳に残る先輩の声

1996年9月19日 掲載
橋口平八郎(63) 爆心地から約1キロの油木町の市立長崎商業学校で被爆 =長崎市元船町=

市立長崎商業学校の一年生だったわたしは、学校に行き、いつものように上半身裸ではだしのまま、近くの防空壕(ごう)を掘った後の土砂を、校庭に運ぶ作業をしていた。

空襲警報が鳴り、作業は一度中断したが、解除され再び作業にかかった。原子爆弾が落とされる五分ほど前、友人と校庭に寝そべって休んでいた。「もう行こうや」と声を掛け防空壕に戻った時、爆音とともに上空にB29の機体が見えた。

すぐさま、先生が「敵機かもレれない。防空壕に避難しろ」と叫んだ。しかし空襲警報が解除されていたため「日本機かもしれない」と十人近い生徒が防空壕のある丘に登っていた。防空壕に入らず、入り口付近に腰を下ろす生徒もいた。これが生死を分けた。

わたしが入り口から少し入った日陰に腰を下ろそうとした瞬間、せん光が走り、軍需工場として使われていた運動部の部室の建物が爆風でふわりと浮かぶのが見えた。その直後、わたしも防空壕の奥に吹き飛ばされた。

防空壕の中は真っ暗で周りの様子が全く分からず、外から出口を教えてもらい、はいずって外に出た。さっきまで青々と茂っていた樹木など周りの緑は、みな茶褐色に変わっていた。

それから丘の上や防空濠の外にいた友人が防空壕の前に集まってきた。みな全身水膨れで、皮膚が垂れ下がり、だれがだれだか分からず「わいはだれか」「おいやっか」とお互いを確認し合った。

やけどをした友人らを日陰で休ませた後、近くの民家から井戸水をくみ、倒壊した運動部室の消火に当たった。部屋の中からは「助けろ」と先輩の叫び声が聞こえた。必死で消そうとしたが火の勢いに追い付かない。声は次第に「助けてください」と弱々しくなり、とうとう聞こえなくなった。あのときの声は今でも耳に残っている。

三菱の軍需工場のあちこちからはバーンバーンと爆発音がしていた。軍属の人がやけどを負って水をほしがる友人を見て「この子には水をやっていい」「この子にはやるな」と指示していた。今思えば、水をやった生徒は助かる見込みがなかったのだろう。わたしものどが渇いていたが、水は飲まなかった。

夕方から友人らと国鉄線路や浦上川沿いを歩いて家路を急いだ。自宅の前で香焼の造船所に勤めていた姉を見つけ抱きしめあい、生きている喜びをかみしめた。
<私の願い>
人と人が憎しみ合い、殺し合うことは、絶対にあってはならない。何の罪もない人が大量に殺される原子爆弾はもちろん、人を殺してしまう銃などの武器は、すべてこの世からなくさなくてはならない。

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