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私の被爆ノート

動員の姉を必死で介護

1996年9月13日 掲載
福 富秋(64) 爆心地から約4キロの稲田町の自宅で被爆 =長崎市辻町=

当時十三歳。母、妹と自宅にいた。母は台所で大豆を煎(い)っていたと思う。ピカッと光った。その瞬間、ゴーという音がして、天井が落ちてきた。家具は倒れ、窓ガラスは飛び散った。

「何が起きたのだろう」。家の下に掘った防空ごうに慌てて逃げ込んだ。しばらくたって外へ出たところ、近所の家のほとんどが倒壊していた。「普通の爆撃とは何か違う」。妹、母を連れ、田上方面へ急いで逃げた。途中、長崎駅付近を見下ろすと、真っ黒な煙がもくもくと上がっていた。

その日は、田手原町の竹やぶの中で一夜を明かした。次の日、川南造船所(当時西彼香焼村)に勤めていた父が迎えに来た。四人で自宅に戻ったが、学徒動員で三菱兵器大橋工場で働いていた十六歳の姉の姿がなかった。

三日後、姉を捜しに父と二人で大橋方面へ向かった。途中、建物は倒れ、黒焦げの死体がいくつも転がっていた。死体を見たのは初めてだったが、怖いという気持ちは不思議となかった。平常心ではなかったのだろう。荷馬車を引いていた人が、手綱を持ったまま黒焦げになっていた光景は、今でも忘れられない。においがきつく、タオルを口に当てたまま歩き続けた。

守衛さんは工場の中に入れてくれず、父が姉の居場所を聞いたが、分からなかった。無事でいることを信じ、負傷者が運ばれた病院を一つ一つ捜して回った。

諫早、大村の病院にはいなかった。川棚の病院へ向かうため大村駅のホームにいたところ、向かいのホームに貨物列車が止まった。荷台にはたくさんの負傷者が寝かされ、その中に姉はいた。全身大やけどで、体を布でぐるぐる巻きにされていた。

自宅に戻り、水を飲ませてやると姉はニッコリ笑った。皮膚に付着した衣類を取ろうとすると「痛い」と目で訴える。体からわくうじ虫を取り、海水で皮膚をふいてやった。必死の介護だった。しかし、姉は次第に表情がなくなり九月三日、ついに息を引き取った。

二十八年後、小学校六年生になった娘と妻に、初めて当時の体験を打ち明けた。
<私の願い>
戦争に加害も被害もない。若者は、もっと被爆者の話に耳を傾けるべき。そして、今日の平和が多くの戦争犠牲者の礎の上にあることを忘れず、二度とこのような戦争を繰り返さないでほしい。

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