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私の被爆ノート

うめき声 耳から離れず

1996年9月7日 掲載
中村 達雄(68) 爆心地から2.3キロの中町の自宅で被爆 =五島奈良尾町奈良尾郷=

当時は十七歳の少年。長崎市中町の自宅にいた。空襲警報が解除になったので家の外に出た。空を見上げると飛行機が銀色にキラッと光り、白い物が落ちたのを見て「稲佐山の高射砲が撃った弾の硝煙」と思い、玄関に入った。

突然ピカッと稲妻みたいな鋭いせん光が走り、目の前が真っ黄色になった。次の瞬間、真っ暗。「何が何だか分からなかった」。気がつくと付近一帯の家々は倒壊していた。体に大きな外傷はなく運が良かった。姉=当時(27)=と二人で諏訪神社の防空ごうに逃げ込んだ。

途中、肩を組んだり支え合い、とぼとぼと歩く人々と行き交った。顔に大やけどを負った人、服をもぎ取られた人、外傷はないがその場に倒れ死んでいく人など…。

防空ごうは避難の市民でいっぱい。近所の人とも会い生きていることを確かめ合った。「水を下さい」と懇願され水をあげたら、すぐに亡くなっていった。それからは水をあげていいものか迷った。「ウー、ウー」と低いうめき声は今でも耳から離れない。学校の運動場で火葬する光景を幾つも見た。

確か十一日だったと思う。救援の「おにぎり」を積んだトラックに「なぜだか分からないが」乗せられ諫早市まで行った。私の格好は白いシャツに霜ふりのパンツ、地下足袋を履いていた。そしてまた、諫早駅から長崎行きの列車に乗り込んだ。何時間かかったのだろう。道の尾駅に着き、列車を降りる。

駅から諏訪神社の方向に歩き出した。足の裏が異常に熱い。小学校や市役所、県庁、教会など鉄筋コンクリートの建物を残し、辺り一面ガレキの焼け野原。倒壊した建物がいたるところでくすぶり、遺体が炎に浮かび上がった。男女の区別などつかない、動いている感じのするのもあったが、どうしようもなかった。「火の玉」をたくさん見た。しばし、ぼう然と立ち尽くし「地獄絵そのもの」と思った。

諏訪神社で姉と再会、父が捜しに来た。約二週間で防空ごうを後にした。西彼多良見町の農家の庭先を借り親子三人で避難生活を始めた。随分たってから、自宅を見に行った。黒いかわらがれんが色に焼けていたのと、兄たち所蔵の医学書の燃えた灰が真っ白に残っていたのが、目に焼き付いて離れない。
<私の願い>
思い出したくない過去の不幸な出来事だが、体験したことを正しく伝える大切さと、平和の尊さを痛感している。次の時代を担う子供たちが「よく考え、正しく判断し行動する態度」を身につけてほしい。

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