旧北松今福町(現・松浦市今福町)から長崎市に出てきてから四年目。三月に結婚したばかりで二十七歳だった。その日も普段と変わりなく午前七時すぎには浜口町の自宅を出て、兵器工場へ出勤した。
故障した旋盤の上に乗り修理していたときだ。青白い光が周囲に広がったのしか覚えていない。「ドン」という音も聞こえなかった。気がついたときは暗くなっていたが、旋盤の下に吹き飛ばされ、天井の明かり取りのガラスが全身に突き剌さり、血まみれなのが自覚できた。
足は全く動かないので、旋盤の下から必死で腕を動かしてはい出た。近くにいた鍛造工三人と「傷は浅いぞ」と励まし合い、工場の第二正門(現在の純心女子高付近)まで行った。正門にあった防空壕(ごう)に三人は入ったが、その壕が火事になり焼け死んでしまった。力尽きそばで倒れていた私は海軍の人の指示で救護所まで運ばれたが、途中で放り出された。残がいが連なる焼け野原で一晩中、「助けて」と叫び続けるしかなかった。
翌日、陸軍衛生隊により運ばれた諫早市の長田国民学校では、自宅に下宿していた台湾人の元さんが働いており、一週間ずっと強壮剤を注射してくれた。奇遇にも小学校時代の恩師、北川先生も居合わせ、兄に連絡を取ってくれた。
それから海軍病院に移され一週間たったころ、兄が会いに来てくれたときは涙があふれて、言葉が出なかった。傷口に湯飲み茶わん一杯分のウジがたかり、死人と変わりないありさまだったので、本当にうれしかった。さらにしばらく通じがなく危険な状態だったが、兄が差し入れたスイカで下痢を起こし、それで幸いにも命拾いすることができた。
兄は私の妻の行方も捜しに行き、妻の両親と会って爆死したのを確認、遺体を焼いて骨を拾ってくれた。葬儀は約一カ月後、古里の今福町に帰ってからだった。二十一歳の若さで生涯を終え、本当にかわいそうなやつだった。
後日聞いたが、被爆の前日、兄の家でネズミやゴキブリが暴れ回り「よくないことが起こる前兆では」と思ったそうだ。戦後は炭鉱などで職を得たが、体の不調で長続きしなかった。十七回手術しても、体のうずきが治まる日はない。
<私の願い>
どんなにみじめな思いをした人がいるか考えてほしい。何があろうとも核兵器は全面禁止にし、次の犠牲者を出してはならない。「国を守るため」というエゴを捨てたときこそ、真の平和が実現するはずだ。