当時十八歳だった。西浦上尋常高等小学校を卒業後、三菱兵器製作所に就職。十畳ぐらいの部屋で、魚雷部品の検査をしていた。毎日が残業だった。
九日、朝から空襲警報が鳴り、同僚と一緒に近くの防空ごうに避難。解除になったため、再び仕事場に戻り、作業に取り掛かった。すると突然、ピカッと光った。慌てて手で目を覆い、地面に伏せた。爆弾が落ちたときには、そうするよう上司ゃ親から何度も言われていた。
どれくらい時間がたったか分からない。気が付くと、周囲が騒がしく「逃げんば、逃げんば」という声が聞こえてきた。けがはなかった。天井は崩れ、近くで同僚の女性が血だらけになって倒れていた。左手をガラスのようなもので切っていたように思う。
「空襲だ、とにかく逃げなければ」と、その女性を連れて防空ごうに向かった。職場にいたほかの人がどうなったのかよく覚えていない。途中、建物はほとんど倒壊し、がれきの下から首だけ出して「助けて」と叫ぶ男性。大やけどを負ってうめく人たち。自分たちの進む道だけを見て歩くようにした。あの時の光景は今でも忘れられない。
ようやくたどり着いた防空ごうは、けが人でいっぱい。家族のことが気になったが彼女をほうってはおけず、女性の自宅がある西北町に向かった。わらぶきの家は焼けてしまっていた。近くの防空ごうにいた家族に彼女を引き渡し、走って昭和町の自宅に帰った。
家は倒壊していた。家族は防空ごうにいた。弟は全身に大やけどを負い、パンツのゴムだけが体に付着し、目がぐるぐる回っていた。爆音が聞こえたため、自宅近くの畑に出たところ、被爆した。成績優秀だった弟は夜明け前に死んだ。ほかの二人の弟、姉、母もやけどを負ったが、その後、回復した。
昭和三十五年、定期健診を受けた際、医者から甲状腺(せん)がんとの告知を受けた。信じられなかった。六時間の大手術。一カ月後に無事退院した。それから十一カ月後、再発。再び手術した。首から右肩、胸にかけて、今も手術の跡が生々しく残っている。
その後も、胸が苦しくなり「今度こそ助からない」と感じることが何回もあった。子供や孫にがんが遺伝しないか、不安な日々は続いている。
<私の願い>
孫にはいつも平和を願い、被爆体験を話して聞かせている。この苦しみは私だけで十分。子供たちが伸び伸びと自由に暮らせるよう、人類を脅かす戦争を二度と繰り返してはならない。