浜崎 均
浜崎 均(65)
爆心地から0.8キロ離れた県立長崎工業学校(当時)に行き、入市被爆 =長崎市若竹町=

私の被爆ノート

兄は骨のかけらに

1996年8月15日 掲載
浜崎 均
浜崎 均(65) 爆心地から0.8キロ離れた県立長崎工業学校(当時)に行き、入市被爆 =長崎市若竹町=

「腕時計が壊れたので貸してくれないか」―。あの日の朝、三つ年上の兄=当時(17)=に頼まれ、私は自分のを手渡した。まさかあれが兄との最後の会話になろうとは…。

当時、兄と私は県立長崎工業学校(現在の長崎工業高校)の生徒だった。戦争で授業どころではなく、私は級友とともに昭和二十年四月から川南工業香焼島造船所(西彼香焼町)に学徒動員。体を壊し働けなかった兄は先生の助手として、毎日学校に行っていた。

あの日、私はいつものように長崎の街に背を向け、屋外で仕事していた。その時だった。空一面が奇麗なピンク色に光り、物すごい音と爆風が襲った。何が起きたのか分からなかった。

昼の二時ぐらいになって「長崎は空襲で全滅した。長崎から来ている者は家に帰れ」との工場内放送があり、船に乗り込んだ。船から見た長崎の街は暗く、炎が天まで届いていた。ざわついていた船内はそれで一気に静まりかえった。

上小島町(現在の上小島一丁目)にあった実家は足の踏み場もないほどだったが、幸い父と母は無事だった。だが兄の姿が見えない。その日は兄の帰りを待ちながら、防空ごうで眠れぬ夜を過ごした。

一夜明け、私と母、伯母の三人は、兄を捜しに上野町にあった工業学校へ向かった。浜町を通り、金屋町の小高い丘から浦上方向を見渡したが、目に入ったのは何もない一面の焼け野原。その光景にただぼう然とした。歩きながら周囲に転がっている死体を見ても、もはや「怖い」とか「かわいそう」とは思わなかった。普通の精神状態ではなかったのだ。

ようやくたどり着いた学校は完全につぶれ、焼けていた。兄もいない。「治療を受けに、たくさんの人が諫早に運ばれていった」と聞いた。翌日、母と諫早まで歩いて行き収容先となっている小学校を回ったが、ついに兄を見つけることはできなかった。

十三日になって再び学校へ行くと、兄の先生が「これが君の兄さんの骨だと思う」と言って私に小さな包みを手渡した。兄の席の所にそれはあったそうだ。両手に載るくらいの小さな骨のかけらだった。
<私の願い>
人類は核兵器とは共存できない。学校、特に、なおざりになっている高校での平和教育に力を入れてもらいたい。日本政府は被爆の実態を世界に伝え、本気になって核兵器廃絶の運動を進めてほしい。

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