松尾 秀子
松尾 秀子(65)
被爆地から約1.1キロの三菱兵器大橋工場で被爆 =大村市坂口町=

私の被爆ノート

「母と弟を返して」

1996年8月8日 掲載
松尾 秀子
松尾 秀子(65) 被爆地から約1.1キロの三菱兵器大橋工場で被爆 =大村市坂口町=

県立高等女学校三年、十四歳の夏だった。学徒動員で駆り出された三菱兵器大橋工場で、魚雷の芯(しん)を作るのが私たちの仕事でその日も汗だくの作業。時計を見て「お昼ご飯までまだだなあ」と思った瞬間、右手の方でピカッとせん光が走った。

訓練でいわれた通り、反射的に伏せの姿勢で顔を覆っていた。屋根、壁、柱。いろんな物が降ってきた。気がつくとがれきは首まで積もっていた。周囲は黒いちりで真っ暗だった。同級生に何とか助け出され、血まみれの男女たちとともに道の尾方面に向かった。何度もつまずき、足をひきずりながら。

民家がつぶれ、道をふさいでいた。男の人が「この下に妻や子供たちがいる。屋根を持ち上げてくれ」と泣きながら何度も頼ん だ。だが全員が負傷の身。腰や下腹部の痛みが激しく私を襲っていた。だれも手伝えない。「ごめんなさい、ごめんなさい」。私はわびながら、その場を過ぎた。

「両親は、弟は」。心の中はその思いだけ。やがて集団との距離は離れ、気がつくと一人。尿はどす黒く、いつまでも止まらない。背中から下にはガラス片が食い込み、下腹部の痛みは極限だった。「独りぼっちで死にたくない」。四つんばいになりながら、城山のわが家へ少しでも近づこうと必死だった。

家は戦死者をまつる護国神社で、父はその宮司。なんとか家が見えるところに来たが、鳥居も社も何ひとつ見えず、全身から血が引いた。「もうだめか」と思うと涙が止まらず「お母さん」と叫び続けた。

線路沿いで汽車に拾われ、諫早の海軍病院にたどり着いたが、被爆から四日後には母の実家がある佐世保の早岐に向かった。家族を救ってもらうためだ。駅からつえをつき、ボロボロになってたどり着いた。そこには負傷した母と四歳の弟が既に運ばれていた。父も原爆落下時は外出中で難を逃れていた。

奇跡的な再会の喜びはつかの間だった。弟は終戦の日の八月十五日、母は十七日に息を引き取った。弟は最期まで痛みを口にせずにこらえ、母はわが子を失った悲しみの中で亡くなった。今も長崎の空に「母と弟を返して」と叫びたい気持ちにかられる。
<私の願い>
私の被爆体験は三人の孫たちに語り聞かせた。かなり大きくなったので、ほかの孫たちも含め、もう一度ちゃんと話そうと思う。そして子々孫々、ずっと語り継いでほしい。二度とあってはならないのだから。

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