原爆投下時、長崎市役所の市防衛本部に詰めていた。突然“ピカッ”と光り、ガラス窓が粉々に吹き飛んだ。瞬間的に私は身を伏せ無傷だったが、ガラス片で大けがを負った同僚も少なくなかった。九、十日は同本部に泊まり込み、負傷者の手当てに従事した。
十一日朝、西山を山越えし爆心地から約六百メートルの竹の久保町の実家を目指した。爆風で地形が変わり、地表はまだ熱かった。叔父が知人から預かった日本刀が手掛かりとなり、どうにか自宅を見つけ出した。そこには仲良しだったいとこら二人の遺体があった。
しかし叔母が見つからなかった。米軍機が旋回する中、遺体捜しを始めた。被爆地の状況は悲惨だった。死体が散乱、まだ生きてる重傷者らにウジがわき、強烈な異臭が鼻を突いた。浦上天主堂の鐘楼は吹き飛び、近くの竹林は爆風で横倒し。家族らが遺体を黙々と火葬する光景があちらこちらで見られた。
「他人は死んでも身内は生きているはず」との思いは強かったが、被爆から十日目、叔母の遺体が自宅から約七十メートル離れた場所で発見された。遺体は既に腐乱し顔形はよく分からなかったが、歯並びやもんぺのひもが決め手になった。爆風で自宅付近から吹き飛ばされたに違いなかった。
叔父の家族は、空襲が激化したため造船所や電機工場があった平戸小屋町から疎開してきたばかり。「もしそのまま平戸小屋に住んでいたら死ぬことはなかったのに」と涙が止まらなかった。
その後、市職員として引き取り手のない市民の遺体処理に当たった。火葬作業は八月いっばいまでかかった。
坊野さんは昭和三十年に市役所を退職して以来、映画産業で活躍。先月十九日、自ら製作した被爆証言映画「あの日―この校舎で」を長崎市に寄贈した。
<私の願い>
戦争を知らない今の子どもたちに五十一年前の長崎原爆の事実を伝えていくことは生き残った者の務め。一人ひとりの意思で核兵器廃絶を全世界に訴えるとともに、原爆で無数の市民が犠牲となったことを記憶にとどめていてほしい。