長崎市立商業学校三年、十五歳だった。当時、学徒動員され兵器工場で魚雷の組み立て作業に従事していた。夜勤を終え、午前八時すぎに本原町二丁目(現在石神町)の下宿先の叔母の家に帰宅した。ちょうど縁先にいたときだった。
突然、せん光が走り、爆風で吹き飛ばされた。気づいたら、壊れた家の下敷きになっていた。「爆弾の直撃を受けたのか」と思ったが、辺りは火の海。広島に投下されたと新聞に出ていた「新型爆弾」が頭をよぎった。
半そで、半ズボン姿だった私は、手足や顔などにやけどを負っていた。「とにかく、けがの治療を」と無我夢中で病院を目指した。あちこちに火の手が上がり、血を浴びた乳飲み子を抱いた母親がいた。晴れていた空は薄暗く灰色に。まさに生き地獄の光景だった。
病院(現在聖フランシスコ病院)も大きな被害に遭っていた。仕方なく、避難者の列に交じって「山の防空壕(ごう)」(現在丸善団地付近)へ向かった。そこで徴用工、学徒動員の学生ら三人と一緒だった。元気な一人がハンカチに水を湿らし介抱してくれたが、二人は鉄板が体を貫通するなど重傷の様子だった。
どれほど時間が過ぎたのか。目が次第にかすみ、悪寒が走った。「このままでは自分もやられる」。もうろうとする意識のなか、夕方、下宿先の防空壕に戻った。翌日、軽傷者は大村の病院に向かったが、重傷の私はそのまま残された。
外海町から父親らが迎えに来るまで三日間、治療もなく生死をさまよった。「お父さんが迎えに来てくれるから」。励ましの言葉だけが記憶に残る。父は十日に防空壕を訪れ、上部は焼け落ち鉢巻き状に残った帽子にあった名前で私の生存を確認したそうだ。
ケロイドによる機能障害があったため年末、手術を受けた。翌年五月に自力で歩けるようになり、その九月、学校に戻った。 昭和二十六年に黒崎農協に就職、現在は外海町農協組合長。
被爆から一カ月後のある日、病床に小学校時代の恩師が訪ねてくれた。初めて敗戦を聞いた。「玉砕」を信じて懸命に働き、そして傷ついたことが報われなかったことへの腹立たしさ、寂しさが込み上げてきた。
<私の願い>
私たちが最初で最後の被爆者であってほしい。広島、長崎の被爆でいまだに苦しんでいる人たちがおり、危険で恐ろしい放射能をこの世からなくしてほしい。核兵器は存在そのものが人類の滅亡につながるものだ。