長崎市松山町百七十番地の爆心地直下に住んでいた。姉夫婦の家で、わたしは傷痍(い)軍人として帰郷し、そこに居候していた。二十一歳だった。
原爆投下の前日夕方、義兄に「明日の朝戻る」と言って、西彼三和町の実家に帰った。予定通りなら今ごろ生きてはいなかった。当日の八月九日朝、友人から「三和町川原までナシを買いに行こう」と誘われ、難を逃れた。実家に戻って「長崎がやられた」と聞き、義兄らのいる市内に向かった。
長崎駅近くに着いたのは夕暮れ時。兵隊が縄を張り通行止めしていた。心配だったため強引に縄の中に入り、電車通りに沿って松山町方向に歩き続けた。電線の支柱が燃えて倒れるのが見えた以外、真っ暗。途中、死んだ馬を何度も踏んだ。火の粉が見えず、はだしの足をやけどした。
爆心地に近づくにつれ、ブルドーザーでならしたように次第に道がきれいになっていった。どの辺だったか、橋の上に立っている人がおり、松山町はどこかと尋ねた。しかし返答がない。よく見ると、欄干にもたれたまま死んでいた。
ようやく姉夫婦の家にたどり着いたが何もない。現在の平和公園の平和の泉近くにあったおば宅もない。仕方なくおば宅の畑で野宿した。夜中に米軍機の機銃掃射が通り過ぎ、「おかあさーん、おかあさーん」と女の子の呼び声が響いた。それ以外は虫の音さえ聞こえない静かな一夜だった。
翌早朝、義兄らが生きていれば来るだろうと思い、松山町の交差点に立っていた。すると、どこからともなく、服が破れ、皮膚のただれた数十人の人々がとぼとぼ現れ、取り囲まれた。救援の役人か何かと勘違いされたんだろう。しかし、与える物は何も持たず、なすすべもなかった。
姉夫帰宅の隣の郵便局では、二階にあった背の高い金庫がそのままの状態で立ったまま真下に落ちていた。残っていたのは金庫と、等間隔に並んだ職員三人の骨だけ。一人は窓口で勤務していた妹だった。真っ白でカラカラになった妹の骨は、すくうほどしかなかった。
<私の願い>
おば宅に続く小道で、なぜか何人もの子供が死んでいた。数日後、遺体の腸が膨れ音を立てて破裂した。もうあんな光景は見たくない。平和であらねばならないと思う。家庭での親から子への教育が大切と思う。善しあしの区別、人を思いやる心を養ってほしい。