寺田 豪
寺田 豪(66)
長崎市家野町の長崎師範学校宿舎で被爆 =平戸市津吉町=

私の被爆ノート

ぼう然自失の2日間

1996年7月10日 掲載
寺田 豪
寺田 豪(66) 長崎市家野町の長崎師範学校宿舎で被爆 =平戸市津吉町=

長崎市家野町の長崎師範学校予科に通っていた十五歳の時。宿舎で寝ていた私は激しい衝撃で跳び起きた。周囲の様子が一変していた。

学徒動員で毎日、赤迫町の「トンネルこうば」と呼んでいた兵器工場に通っていた。前夜からの夜勤に疲れ果てていた。気が付いたら真っ白い世界に取り残された感じ。宿舎は窓ガラスが割れ、炎に包まれ倒れる寸前。六人ほどいた仲間の一人が吹き飛ばされ、窓のさんにぶら下がっていた。

「布団を出せ」。そう叫び、押し入れをたたき壊して、布団を窓からほうり投げ、その上に無我夢中で飛び降りた。外では建物がつぶれ、水辺に死体。肉片が付いた高圧線が垂れ下がり、それに触らないように歩いた。今でも電線を見ると恐怖感が先立つ。

蹴球(しゅうきゅう)をしていた私は日ごろ先輩から、「空襲の時は頼む」と宝物のサッカー靴を預かっていた。それを入れたバッグを首に下げ、日勤で工場で働いている先輩に渡さなければと思い、体の痛みにも気付かず周囲の人とともに赤迫方面へとただ歩いた。幸い先輩は無事だった。その靴は今でも記念品として、先輩が大切にしている。

その後、意識があったりなかったりの状態で浦上水源地にたどり着いた。赤十字の看護婦さんが用意した戸板の上で一晩を明かし、翌日長与小学校の体育館に収容された。師範学校の助教授が言っていた「人類を全滅させる死角のない、アメリカが作った新型爆弾」だと確信するとともに、生きている喜びを実感した。

平戸に戻り、被災の不安に苦しみながらも、幸い普通の健康体に回復。昭和二十四年、大村で長崎師範学校本科を卒業後、教職に就いた。現在は平戸市教育長を務めている。

長与にたどり着くまでの二日間は、今でもこの世のものでない夢のような出来事だったように思う。夢遊病者みたいに歩きながら、目にしたものは言葉では表現できない。“ぼう然自失”。本当に恐ろしい体験だった。被爆が原因で亡くなった友もおり、今でも思い出したくない心境でもある。
<私の願い>
阿鼻叫喚(あびきょうかん)を実感。今でも夢ではなかったかと思う。戦後五十年が過ぎ、原爆への思いが風化されないよう、語り継がなければならない責任感がある半面、正直言って語りたくない気持ちもある。戦争、原爆の被害は二度と繰り返してはならない。

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