反納 清史
反納 清史(53)
爆心地から約2.2キロの稲佐町の三菱電機の社宅で被爆 =長崎市城山町=

私の被爆ノート

いやされぬ〝心の傷〟

1996年7月4日 掲載
反納 清史
反納 清史(53) 爆心地から約2.2キロの稲佐町の三菱電機の社宅で被爆 =長崎市城山町=

二歳の時、稲佐町にあった三菱電機の社宅の縁側で寝ていたときに被爆した。そのころの記憶はほとんどない。左半身にケロイドができたが、物心つくまではそれが原爆によるものとは知らなかった。

小学校低学年のころ、わたしの体を見て「汚いかち寄るな」「気持ち悪い」と言って同級生から石を投げられていじめられた。父や母に泣きながら話したことを覚えている。そのとき長崎に原爆が落ちたこと、原爆でケロイドができたことを聞かされ、自分が被爆したという認識を持つようになった。

中学になるといじめはなくなり、差別は同情に変わっていった。その後、長崎西高校に進学。器械体操部に所属し、日々練習に励んでいた。ある日の練習中、体にあざがあることに気付いた。とっさに「紫斑」(しはん)ではないか」と思った。すぐ家に戻り、裸になって体中のあちこちを鏡に写して見た。当時は「原爆の放射能を受けた人間は紫斑が出て泡を吹いて死ぬ」と聞いていたので、死に恐れおののいた。

それから数年がたち、東京の大学に通った。確か三年の夏の夜だった。いつものように三畳一間の下宿に帰宅し、眠りについた。疲れていたせいか、ぐっすり寝ていたと思う。しかし夜中に急に息苦しくなって目が覚めた。気が付くと鼻血が出てほおや髪の毛、布団に血のりがべっとりついていた。すぐに鼻を押さえたが、血は止まらない。またも死の恐怖が頭をよぎった。「ついにきたか。神様助けてください。いや、ただ鼻の血管が切れただけだ。原爆とは関係ない」。一人きりの薄暗く狭い部屋で、死の恐怖におびえ、それを必死で払いながら眠れない夜を明かした。

わたしには被爆直後の長崎の惨状の様子は記憶にない。しかし“放射能を浴びたことへの恐怖”は常に頭の片隅にある。それは体のちょっとした異変が起きたときに必ず現れる。これこそが通常兵器の被害者と被爆者の違いであり、核兵器の恐ろしさだと思う。今は体調はいい。だが、被爆したという心の傷は深く残っている。この傷はこれからもいやされることはないだろう。
<私の願い>
わたしのように放射能の恐怖におびえる人間を今後この地球上につくってはならない。戦争を起こさないことと同じように、チェルノブイリの原発事故など核兵器以外で被ばくする人間もなくさなくては。被爆者団体が活動をしなくてもいい日が来ることを切望している。

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