長崎市丸山町の料亭に住み込みで働いていた。八日は店が休みで、朝から江平町の実家に帰った。夕食を一緒に食べ、いつものように泊まっていこうと思っていたら、両親から店に戻るように言われ、しぶしぶ家を後にした。
九日、店の仲間と部屋でくつろいでいると、すごい音がし、窓ガラスが大きく揺れた。窓からのぞくと、キノコ雲が見えた。「広島の次は長崎が危ない」―店に顔を出す軍人が話していた言葉が一瞬、頭をよぎった。しかし、何が起きたのか分からなかった。
昼すぎに近所の知人が店に来た。「早く帰らんね。家も何もかもないよ」とボロボロ涙をこぼしながら教えてくれた。おむすびを用意し、げたや砂糖などを持ち、家へと急いだ。
焼け野原の中を重傷者が「水を飲みたい」とさまよっていた。多くの死体のそばを通り、「お母さん、どこにいるの」と何度も叫びながら捜し回った。石段を上っていると、「ねえちゃん」と手を振る二人の妹の姿が見えた。妹たちは泣きながらしがみついてきた。
私と、この二人の妹以外はみんな死んだ。すぐ下の妹は家の中。三番目の妹は学徒動員で働いていた工場。兄嫁とその子ども二人は近所で。父と兄は仕事場に行く途中だったと思う。母の遺体は、妹たちが近くの川沿いで見つけていた。体半分が焼け焦げていた。男性数人が遺体を家の敷地まで運んでくれた。防空ごうの中に入れていた着物を体に掛けてやり、だびに付した。遺骨を拾い集め、つぼに納めた。
その日の夜は父親が雇っていた従業員の家に妹二人と泊まり、翌日の朝から千々石町の親せき宅へと向かった。途中、一緒に長崎を出た店の仲間の森山村(現森山町)の実家で一泊した。千々石町に着いた時は、足がはれ上がっていた。一カ月ほどお世話になった後、長崎へ帰った。
終戦後、兄嫁の兄弟や近所の人たちが家のがれきの下から骨を見つけてくれたが、だれのものか分からない。昭和四十二年に千々石町で結婚。昨年、長崎にいる妹と、江平にある墓の横に法名塔を建てた。この五十年間、いろんな苦労を乗り越え、自分なりに頑張ってきたと思う。
<私の願い>
原爆の悲惨さを思い出すたび、いまだに涙が止まらない。戦争がなければ、好きな芸事もまだできただろうし、もっと元気よく暮らしていたかもしれない。戦争はもういや。二度と繰り返してほしくない。