当時十九歳。三菱長崎製鋼所(茂里町)の勤労課で働いていた。その日の朝、誓戒警報のサイレンで会社近くの防空ごうに入った。しばらくして解除されたため、平常通り仕事に就いた。
すると、爆音が鳴り響き、友人と「警報は解除されたのに変だね」と言葉を交わした矢先のことだった。突然、窓越しにピカッと閃光(せんこう)が走った。その瞬間、部屋の中が真っ暗になり気を失った。
気が付くと、会社から数百メートル離れた梁川公園に寝かせられていた。近くにいた兵隊らしい人に「何があったのですか」と尋ねると「新型爆弾が落ちた。みんなを助けている」と答えた。六日、広島に落とされたという爆弾のことを、ふと思い出した。 髪の毛は逆立ち、衣類は血とほこり、砂などでぐしゃぐしゃ。前歯は数本折れ、体の右半分は内出血でどす黒くなり出血もしていた。下半身は動かず、とても自分をまともに見ることができなかった。聞いたところによると、崩れ落ちた壁や棚などの下敷きになっているのを助けられたらしい。
しばらくたって米軍の飛行機が低空飛行してきた。怖くなり、はいずりながら会社に向かった。途中、魚が焦げたみたいに真っ黒に焼けた死体などが散乱していた。外壁だけが残った製鋼所には負傷者が次々と運び込まれ、既に死亡した母親のおっばいを吸う赤ん坊、「水をくれ」と叫ぶ声もむなしく死んでいく人たち。生き地獄だった。
二日後、迎えに来た両親のリヤカーで、西山町二丁目の自宅に戻った。会社の同僚たちはどうなったのか、いまだによく分からない。
昭和五十八年、戦後勤めた会社を定年退職。趣味の水彩画をかきながら老後を楽しんでいるが、放射能によるがんへの不安は今も消えない。
あれから五十一年。かたくなに被爆したことを隠してきた。被爆者と結婚すると奇形児が生まれるなどと世間がかき立て、縁談もうまくいかず、知人に「なぜ結婚しないの」と聞かれるのがつらかった。思い出すと涙が出る。だが、姉(吉山秀子さん)が語り部をしていることもあって、初めて被爆体験を話す気になった。
<私の願い>
国の違いなど関係なく世界すべての人が、戦後五十一年たっても被爆者の脳裏から離れない核の脅威を直視し、この世でもっとも大切な平和について考えてほしい。