長崎市小島地区の接客業店に住み込み、炊事場の手伝いなどをしていた。九日は朝から出ていた警戒警報が解除されたため、店の四、五軒先で接客婦の健康診断を手伝っていた。
突然、稲妻のようにピカッと光った。思わず身を伏せたが、爆風で割れた窓ガラスの破片が床に飛び散り、左脚のももを切った。約五分伏せていたが空襲警報が鳴らないので店に戻った。玄関に入るとげた箱(高さ約一八〇センチ)が倒れ、廊下は盛り上がり、天井は下にへこんでいた。
この日は、おにぎりを作り、店の人たちと田上の芋畑へ行き避難した。夜になると、県庁が蛇の舌のような炎に巻かれて燃えているのが見えた。
山に寝泊まりした三日間、学徒動員で三菱兵器大橋工場で働いていた妹のれい子=当時(15)=の安否が気になっていた。工場近くに新型爆弾が落ちたと聞いた。十二日に山を下り、れい子を捜しに出掛けた。浦上まで来ると、一面死体だらけだった。真っ黒焦げ、半焼け、ただれた皮膚─。怖くて足が前に進まなかった。
工場付近の死体の中かられい子を捜したが見つからなかった。鉄筋の建物の玄関にあったノートには、被爆者と搬送先の病院が書いてあったが、れい子の名前はなかった。中からうめき声が聞こえたが、中に入る気にはなれなかった。
市役所でも、れい子の安否は分からなかった。工場の下敷きになり死んだものとあきらめ、故郷の北松大島村に帰ることにした。道の尾駅から汽車に乗り、北松南田平村から大島村に渡る船に乗ると、船長が「れい子ちゃんはきのう乗せていったよ」と教えてくれた。
れい子の所に行くと、横になっていた。被爆直後、諌早市内の病院に運ばれていた。額に約十センチの深い傷を負い、五年前に亡くなるまで一生その傷は消えなかった。「きつかったね」と一言声をかけた後は、二人とも涙で何も話せなかった。(佐世保)
<私の願い>
貧しくてもいいから戦争はなくしてほしい。人が人を事もなげに殺すのは悲しい。核兵器がなぜ必要なのかとも思う。抗議を受けながら核実験を続ける国があるが、どうして被爆者の気持ちが分からないのか。若い人たちには戦争、核兵器がない世界をつくってほしい。