当時、国民学校の六年生だった。時津町日並の実家の下が海岸で、あの日、仲間五、六人と一緒に泳いでいた。海で捕まえたイカを右手に、波止場に上がった途端、「ピカッ」と空が光った。真夏の太陽の中でさえ、強烈なせん光だった。
それが原爆だったとは知るよしもない。現在の鳴北中学校下付近の海岸に朝鮮人徴用工の宿舎があり、そこに焼い弾が落ちたのだと思い、仲間に「上がれ」と声を掛けて近くの防空壕(ごう)へ走った。途中、三十メートルほど走った所ですごい爆風が来た。その日は掃除の日で、立てかけてあった畳が伏せた体に倒れかかってきたが、幸い、けがはなかった。近ければ全身やけどだったろうと、後からの伝聞で想像し、ぞっとした。
壕の中には十人ほど避難していて、「広島に落ちた新型爆弾ではないか」と大人たちが話し合っていた。しばらくして壕の外に出てみると、南の空を真っ黒い雲が覆っていた。それが原子雲の残りだったのだろう。
国民学校は、新学期が始まるまで被爆者の収容所になっていたそうで、床に全身やけどの痕跡が染み付いて、すごいにおいがしていたのを覚えている。
戦争に負けるとは思ってもいなかった。毎朝波止場から見送っていた大村海軍工廠(しょう)に通う職工さんたちの船があり、ある朝波止場に行くと既に出た後だった。その時、突然正面から艦載機が現れ「やられた」と思って伏せた。機銃掃射はなかったが、機は頭上を旋回して沖合の船を一撃して行った。後で被害はなかったと聞いたが、完全に制空権を握られ、国民学校の裏山にも弾痕が残っていた。毎日のように警戒警報が鳴り、学校から帰宅させられていた時代だった。
昭和四十年ごろ被爆者手帳の交付を受けた。幸い大病もなく、今日に至っている。
<私の願い>
戦後、目標を持てずにいる若者たちが増えたように思う。平和すぎて、昔のように「勝つ」目的もなく、自分のことしか考えられない若者たちがいる。偏差値教育のひずみかしれないが、日本の将来が背負えるのか不安になる。学校、家庭での基本的なしつけが今、大切になっているのではないだろうか。