昭和二十年一月、三菱重工長崎造船所に強制的に徴用された。八月九日、木鉢に建設していたトンネル工事資材を船から荷揚げしていたとき、B29のプロペラ音が聞こえた。上空を見上げると「白い落下傘」がはっきりと確認できた。
“ピカッ”とせん光が走り爆風に襲われた。食堂の屋根が覆いかぶさってきて気絶した。屋根のすき間から、積乱雲に真っ赤な光が刺すように見えた。さらに二時間ほど気絶。作業船は真っ二つに折れた。
トンネル内には負傷した朝鮮人徴用工が苦しがっていた。ガラス片が突き刺さった人は全身血だらけ。午後四時すぎ、山越えし平戸小屋町の朝鮮徴用工員寮(三百五十人入寮)を目指した。造船所は半壊、長崎港には死体が浮かんでいた。市街地は燃え盛り、浜口町、幸町などの軍需工場に徴用された友人たちは行方知れず。その日は福田の海岸で一夜を過ごした。
翌日から朝鮮半島出身者の仕事は死体処理だった。真夏の炎天下、強烈な悪臭が漂った。「祖国に帰りたい」との一心から十二日夜、日記帳とわずかな郵便小切手を持って逃げた。女性事務員が作ってくれた偽の旅行証明書が役立ち、十四日夜には下関に到着。十五日、玉音放送を聞いた同朋(どうほう)が歓喜の声を上げていた。植民地下、「皇民化教育」を嫌というほどたたき込まれた私は、不思議と一緒になって騒ぐ気にならなかった。
帰国後、全身に赤い水膨れができ、発病。死を覚悟したこともあったが、つい最近まで自分が被爆者であることすら知らなかった。在韓被爆者の大半がそうであったように。
<私の願い>
強制連行や従軍慰安婦問題など戦後半世紀が過ぎた今日でさえ、日本政府は何一つ謝罪していない。原爆投下が非人道的な行為だったことは紛れもない事実。だが、日本の人々は戦時中の日本の軍国主義が原爆投下を招いたことを忘れてはならないと思う。