村田 昇
村田 昇(64)
爆心地から約0.5キロの旧制鎮西中学校で被爆 =長崎市出雲3丁目=

私の被爆ノート

おびただしい数の死体

1996年5月9日 掲載
村田 昇
村田 昇(64) 爆心地から約0.5キロの旧制鎮西中学校で被爆 =長崎市出雲3丁目=

旧制鎮西中二年生だったわたしは、クラスの登校日だったため、疎開していた桜馬場から学校(現在の宝栄町)に行った。午前九時ごろ、空襲警報が鳴り、校舎の地下室に続く階段の途中にある踊り場に避難した。

真っ暗やみの中、約四十分ほど過ごした。警報が解除されたため、校庭に出て農作物の手入れや防空壕(ごう)の掃除などをしていた。途中で少し休もうと思い、同級生二人とさっき避難した踊り場の壁に、三人並んでもたれかかり雑談をしていた。地下室の中にも生徒がいたらしく、十人から十五人の話し声があった。

その時、爆音が聞こえた。右隣の最も一階に近いところにいた友人が「またきよるな」と言った瞬間、真っ暗な踊り場に一階の方から、少しピンクがかった白いせん光が走り、爆風に襲われた。ふと気付いて横を見ると、さっき話をしていた友人が真っ黒焦げになって死に、左隣にいた友人も全身に大きなガラス片が突き刺さって息絶えていた。地下室の話し声は聞こえなくなり、生徒は二度と上がってこなかった。

まず、外に出ようと思い階段を上った。階段はがれきとガラスの破片に覆われ、歩くと「ザックザック」と音がした。一階は熱風によってあちこちで火災が起き、ほこりと煙で周りは全く見えなかった。なんとか玄関から校庭に出ると、浦上の方に真っ黒い入道雲のような雲が立ち上っているのが見えた。

校庭には畑で農作業をしていた下級生ら約三百人が、あちこちで黒焦げになって死んでいた。何が起きたのか分からなかったが「とにかく逃げよう」と考え、桜馬場に向かった。

浦上から勝山小学校の辺りまで、おびただしい数の死体が横たわっていた。中町教会は火に包まれていた。新大工町の特設救護所で体に刺さったガラスを取る簡単な治療をしてもらった。桜馬場の家に行ったが、かわらは落ち、壁や窓ガラスが飛び散っていた。高台にある若宮稲荷に避難したが、全身にやけどを負った人がたくさんいた。そこで両親と無事を確認し合った。
<私の願い>
戦争ほど醜いものはない。殺人を目的とする兵器を持っている状態での真の平和はあり得ない。平和を唱えるならまず武器を捨てるべきだ。今の人は平和を空気と同じように、どこに行ってもあるものと考えているようだ。しかし、どのように平和を持続していくかを今一度、人類全体で考えねばならない。

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