浜田 正輝(84)
爆心地から約4キロの岩屋郷(現在の葉山2丁目)の工場で被爆
=長崎市葉山2丁目=
五十一年前の八月九日。岩屋郷の船舶部品関連の製造工湯で作業中だった。市中心部の方角で“ピカッ”とピンク色の光が見えた瞬間、強烈な爆風で吹き飛ばされた。ガラス戸は粉々に砕け散った。付近のわらぶき家屋は燃え上がった。川で遊んでいた子供たちは無事だったが、ガラスが胸に突き刺さった女性作業員もいた。自宅は半壊した。何が何だか分からず、その日は恐怖を味わいながら自宅近くの防空ごうで一夜を過ごした。
翌朝、親類の安否が気掛かりで子供を連れて妻の実家(古町)を目指した。道々に人間の死体が転がっていた。赤迫付近で米軍機が旋回するのが見え、道路沿いの防空ごうに避難。生きた心地がしなかった。大橋一帯は悲惨だった。家屋跡はまだくすぶり続け、人間や馬の死体が折り重なっていた。どれもやけどのためか異様なほどに膨れ上がっていた。人の顔とは思えなかったほどだ。
実家は辛うじて焼け残ったものの、義父は疎開先の城山地区に行ったきり行方不明。約一週間、爆心地一帯を懸命に捜し回ったが、何一つ手掛かりは見つからなかった。
工場には市中心部からやけどを負った重傷者らが次々に訪れてきた。「(患部に)油をつけてくれ」「水を飲ませてくれ」などと助けを求められ、できる限りのことはしてやったつもりだが、無念にもその場所で息絶えた人もあった。自分のことを考えるだけで精いっぱいだった。
その後、「米軍が長崎港に上陸する」とのうわさが広まり、親類全員で北高来郡湯江に一時避難。本当に苦しい時代だった。
<私の願い>
五十一年前の悪夢の出来事はいまだに忘れ去ることができない。戦争はどんな理由があろうが起こしてはならないし、核兵器を使うと、大勢の人間が一瞬にして殺される。人類は過ちを繰り返してはならない。