宮崎トミホ
宮崎トミホ(70)
爆心地から約0.7キロの長崎医科大付属病院(現長崎大医学部付属病院)で被爆 =長崎市石神町=

私の被爆ノート

山頂目指し地獄の行列

1996年4月25日 掲載
宮崎トミホ
宮崎トミホ(70) 爆心地から約0.7キロの長崎医科大付属病院(現長崎大医学部付属病院)で被爆 =長崎市石神町=

長崎医科大付属病院で、主任看護婦をしていた。

朝から空襲警報が鳴ったため、いつものように入院患者を地下室に避難させた。警報が解除されたため一階の看護室に行き、一人で急ぎの書類を整理していた。そのとき、爆音が聞こえた。「おかしい」と思い、机の下にしゃがみ込もうとした瞬間、背中を何かに打たれたように激痛が走った。

光ったような暗くなったような何とも言えない感じがし、自分の所にだけ爆弾が落ちたと思った。気が付くと、後ろにあった棚が背中に倒れてきていて、周囲に医薬品やガラスなどが散乱していた。

しばらくたった後、身をよじりながらはい出した。患者や仲間がいる地下室につながる廊下は、鉄骨の天井が落ち、がれきの山。右往左往しながら、地下へ下りるとみんな無事だった。だが、一階の治療室にアルコールを取りに行った後輩の看護婦二人の行方が分からなかった。

地下へ煙が入ってきたため、おびえる仲間の看護婦を連れ二人で外へ出た。病院裏の穴弘法山を目指し、燃え盛る立ち木の中を縫うように避難。途中、自分の背中から生温かいものが流れているのに気が付いたが、とにかく必死に逃げた。

風船が破れたように肌が赤く垂れ下がった人、黒焦げの人、元気な人、みんな同じ山を目指し、まるでアリがはい上がるようにぞろぞろと行列して登って行く。地獄の光景だった。穴弘法山を越え金比羅山で仲間の看護婦たちと会えたものの、呼吸もできないほど胸が苦しく、その日は座って一夜を過ごした。何かの爆発音が一晩中鳴り響き不気味な夜だった。

翌日、行方の分からない二人の看護婦が気になり山を下りた。浦上周辺は依然として火の海。病院を見に行った看護婦から「二人のうち一人は負傷したが無事。もう一人は鉄骨が直撃し即死した」と聞かされた。とにかくすべてが地獄だった。背中の痛みは続いた。二カ月後、大村海軍病院(現大村国立中央病院)で診察した結果、ろっ骨が折れていることが分かった。
<私の願い>
あの悲惨な体験は私たちだけで十分。このような悲しいだけの戦争を二度と繰り返さないよう、原爆の怖さを世界のみんなに伝えなければいけない。戦争も核もない平和な世界を願う。

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