浦 瑞枝
浦 瑞枝(76)
爆心地から約3キロの西彼長与村(現在の長与町)の自宅で被爆 =長崎市樺島町=

私の被爆ノート

恐ろしく一睡もできず

1996年4月19日 掲載
浦 瑞枝
浦 瑞枝(76) 爆心地から約3キロの西彼長与村(現在の長与町)の自宅で被爆 =長崎市樺島町=

長崎駅近くで旅館を経営していた。夫は佐世保海兵団に入隊し熊本県内に駐屯。空襲が激化したため長男=当時(6つ)と長女=同(4つ)=、夫の母親を連れ五島町に移り住んだ。

空襲警報が鳴るたび、子供たちを連れ近くの防空ごうに逃げた。「爆弾を落とされるのでは」と子供たちは暗やみでおびえた。その後、疎開先の長与村高田郷に民家を間借り。毎日、配給品を取りに行くため一人で五島町まで通った。

八月九日。朝から空襲警報が鳴り長崎に行かなかった。台所で防空ごうに持っていくおにぎりを作っていた。警報は解除されたはずなのに、飛行機の音が聞こえたので外で遊んでいた長男を家に呼び戻した。

まさにその時、七色の光が走り、強烈な爆風に襲われた。何が何だか分からなかった。気が付くと、天井が傾きたんすが倒れ、辺り一面に窓ガラスの破片が散乱。子供たちは無事だったが、近くのわらぶき家から火の手が上がっていた。爆風で吹き飛ばされた母親は幸運にも無傷だった。防空ごうで一夜を過ごしたが、けがを負った人たちのうめき声が恐ろしく一睡もできなかった。市街地の方角は赤々と燃え盛っていた。

翌日、市街地から大やけどを負った人たちがぞろぞろと道の尾駅に歩いてきた。皮膚が焼け落ちて目鼻立ちさえ分からず、服が肌に張り付いていた。あまりに恐ろしい光景でまともに見られなかった。重傷者から「水をくれ」と腕をつかまれ助けを求められたが、「水を飲ませると死ぬ」と聞いていたので何もしてやれなかった。今でも後悔している。

「外人に乱暴される」とのうわさが広まり、子供たちと一緒に死ぬことを決意した。先祖をまつる五島・福江の実家に行った。子供を守ることに精いっぱいだったが生きる希望はなかった。
<私の願い>
原爆で多くの子供や女性など罪のない人々が犠牲になった。戦争は人間の欲と欲とのぶつかり合いで何の意味もない。原爆を体験し、この世で最も大切なものは「平和」と痛感した。子孫のためにも二度とこのような悲惨な戦争を繰り返してはならない。

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