三根美津恵(73)
爆心地から約3キロの本博多町(現在の万才町)の長崎本博多郵便局で被爆
=佐賀県嬉野町=
あの日、本博多郵便局に勤務していた。窓口で紙幣を数えていたちょうどその時、ピカッとせん光が走り、ドーンというごう音が鳴り響いた。とっさに机の下に身を伏せた。何が何だか分からず無我夢中で近くの防空ごうに避難した。被爆直後の大火災で坂本町(爆心地から約一キロ)の実家に戻れず、西山を越えて北部の道の尾駅で野宿。家族の安否の心配や浦上方面の燃え盛る炎、大やけどを負った避難者のうめき声などでその晩は一睡もできなかった。
翌日、夜明けを待たずに実家に向かった。家々はくすぶり続け黒焦げの死体が散らばっていた。家の柱に挟まった人から助けを求められたが、どうすることもできなかった。みんな自分のことで手いっぱいだった。
山王神社下の実家は焼失。両親は近くの防空ごうに横たわっていた。大やけどで全身血だらけ。長崎医科大学付属薬学専門部教授の長兄と、三菱長崎造船所に勤務していた次兄は行方不明のまま。その晩の、町のあちこちで遺体を荼毘(だび)する光景が目に焼き付いている。両親も約一週間後、玉音放送を聞くことなく相次いで死去。父親は「いたか、いたか」と最期の言葉を残した。
職場復帰した時、郵便局長から「おまえは職場放棄した。懲戒免職だ」と命令された。終戦後の生活苦から進駐軍に身売りする友人も少なくなかった。本当に悲しかった。
被爆五十周年の昨年夏開かれた薬学専門部慰霊祭で、長兄の教え子から初めて長兄の死亡を知らされた。
<私の願い>
原爆は何の罪もない子供や老人を無差別に殺りくした。戦争は絶対に繰り返してはならない。だれが得するというのか。われわれ生き残った者が、死んでいった被爆者を供養するためにも、五十一年前の被爆の実相を語り伝えていかなければならないと思う。