二十四歳だった。警報で父、母、弟、夫常一の五人家族で、自宅近くの防空ごうに近所の人たち約四十人と一緒に避難。警報が解除されたため、ニ歩ほど外に出た瞬間だった。大きな爆発音と同時に気を失った。
気が付くと三日たっていた。水道管から噴き出す水を飲んで二日間飢えをしのいだ。次の日、諌早からおにぎりが届き、半分ずつ分け合って食べた。本当においしかった。空は真っ赤で、自宅が燃えるのをぼう然と見ていた。真っ黒焦げになった人や馬、牛の死体をよけながら「アッチッチ」と言いながら歩いた。「水をくれ、助けて」と足を引っ張られたが、振り払った。自分のことだけで精いっぱいだった。
かんかん照りの空から雪のようなものが降ってきた。見上げていた私のまつげは焼け、もんぺと防空ずきんにも火が付き、腹や足の皮膚がぼろ切れのようにぶら下がっていた。
右耳の鼓膜は爆発音で破れていた。その後、のどは針の穴くらいになるほどはれた。今までに三回手術をしたが、それでもはっきりと発音できない。
夫の転勤に伴い、佐世保市の病院に一年間入院。夫は左半身やけどを負ったが無理して働き、亡くなった。
三年後、海軍上官のジャニ・ヘイゲル氏(八年前に死去)と結婚し渡米。八年前まで、高校生らに生け花や日本舞踊などを教えていた。生徒たちは被爆体験に涙を流していた。夫はアラスカ、グアムなど転々とし、計十二年間別居生活をして二人の男の子を育てた。
足などにある紫斑(しはん)を見て、友人たちは「cherry blossom(桜)のようだ」という。全身神経リウマチで震えやしびれの症状がある。現在、渡日治療のため長崎入り。日赤長崎原爆病院で精密検査しているが、心臓が肥大し、肝臓や胃の機能も衰えているという。米国では三十八歳の二男と同居。近所の人たちは「本当は原爆を落とした米国が被爆者の面倒を見なくてはいけないのにね。I,m sorry」といい「リリー(愛称)、今日は元気?」と気遣ってくれる。
<私の願い>
二度とあのような戦争を起こしてはならない。日米が仲よく助け合わなくては。米国では、今後も被爆体験を語り伝えていきたい。若い人たちは、被爆者の話を聞いたり資料館を見学したりして、悲惨な出来事を知ってほしい。