内野 愛子
内野 愛子(64)
爆心地から約3.5キロの銅座町の路上で被爆 =長崎市小峰町=

私の被爆ノート

幾度も死線さまよう

1996年3月28日 掲載
内野 愛子
内野 愛子(64) 爆心地から約3.5キロの銅座町の路上で被爆 =長崎市小峰町=

あの日、私は学徒動員先の造船所勤務がたまたま休みで実家近くの銅座橋で遊んでいた。突然“ピカッ”とせん光が走り、地響きがとどろいた瞬間、家屋のガラス戸が一斉に吹き飛んだ。

何が何だか分からなかったが、無我夢中で母親と一緒に自宅庭の防空ごうに避難した。辺り一面、黄色の土煙が舞い上がり、上空は真っ黒の煙に覆われた。本当に怖かった。「風頭に避難しろ」という指示に従い、正気を失った母親の手を引いて山頂を目指した。しばらくして、あちらこちらから火の手が上がった。眼下に広がる“火の海”の光景は悲惨だった。

三日後。行方不明の父親を捜すために爆心地一帯を歩き回った。父は三菱兵器大橋工場に動員されていた。大橋付近には、炭化した死体や焼けただれた馬、そして大やけどで苦しむ人々の姿があった。ようやく、工場の焼け跡から父の名を記したぼろぼろの米袋を見つけた。結局、唯一の遺品となってしまった。家族の大黒柱を失っただけではすまなかった。母は精神状態が不安定で寝たきり生活となり、翌年夏死去。三菱兵器住吉トンネル工場にいた姉は重傷を負った。

そして秋ごろから、私にも被爆症状が現れ出した。四〇度近い高熱にうなされ、髪の毛はすべて抜け落ちた。止まらない下痢と口内出血。洗面器を血で染める毎日だった。妊婦のようにおなかが大きく膨れ上がり、幾度となく死線をさまよった。先行きの不安が重なり「死んだほうがまし」と毎日考えていた。

どうにか体調を持ち直し結婚したものの、原爆症の不安は一度も消えなかった。特に子供たちへの影響は気掛かりだった。あまりに悲惨でつらい被爆体験は忘れたい、とずっとそう思ってきた。
<私の願い>
私たちはお国のために青春のすべてをささげ、命をすてることも苦にならなかった。しかし原爆に遭い被爆者となった。被爆者は言葉では言い尽くせないほどの苦労を背負って生きてきた。この事実を多くの人たちに知ってほしい。

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