吉山 秀子
吉山 秀子(72)
爆心地から1キロの三菱長崎製鋼所で被爆 =長崎市西山2丁目=

私の被爆ノート

さまよい歩いた3日間

1996年3月7日 掲載
吉山 秀子
吉山 秀子(72) 爆心地から1キロの三菱長崎製鋼所で被爆 =長崎市西山2丁目=

昭和十五年に瓊浦高等女学校卒業後、製鋼所に勤務。当時二十二歳で、三階の営業課で事務を担当していた。

防空ずきんを置いて仕事を始めようとした途端、ピカッと閃光(せんこう)が走り、きな臭いにおいに包まれた。顔には大きな三角形のガラスが刺さった。抜き取ると、ピューッと血が噴き出し、その後しばらく失神していた。

気が付くと何もかもなくなっており「すごい爆弾が落ちたんだな」と思った。

壁の下敷きになった友達が「助けてー」とうめき、けがをした人が「水、水」と足元に寄って来た。だが頭が真っ白で、払いのけてしまった。恐ろしい人間になっていたようだ。

「吉山さん、吉山さん」と足元で聞き覚えのある声がした。受付の井手啓子さん=当時(19)=だった。守衛室に新聞を取りに行く途中、直接熱線を浴びたらしい。美しかった顔は真っ赤に焼けただれていた。「水が飲みたい」と言うので、管から噴き出していた水を茶わんのかけらにくんで飲ませた。

「顔、どうかなっとらん?」。そう聞かれたが「どうもなっとらん、きれかよ」と答えるのがやっとだった。井手さんは安心したように息を引き取った。なぜか涙ひとつ出なかった。

帰らない私を心配し「せめて遺体だけでも」と、母と妹がリヤカーを引いて工場のそばまで来た。抱き合って互いの無事を喜び合った。「三日間帰って来んやったよ」と聞いた。工場付近をさまよっていたらしい。

顔はガラスなどの切り傷でひどい状態だった。髪の毛は、ズルズルとくしに付いてきた。「死んだほうがましだ」と思ったが、勇気が出なかった。体がだるく、寝たり起きたりの生活。座ることができるようになるまで約一年間かかった。

二十一回の入退院を繰り返している。左の乳房は、約十年前に乳がん、甲状腺(せん)も機能低下症で切った。当時六年生だった妹(六女)は被爆四十年の十一年前、突然白血病で倒れ「死にたくない」と言いながら四カ月後、五十三歳で亡くなった。現在、七十歳と六十七歳の妹と三人で暮らしている。
<私の願い>
子孫に残す一番の財産は「平和」。何よりも核兵器廃絶を願っている。いじめなどで自らの命を絶つ若者が多いが、一生懸命働いて水を飲むこともできずに亡くなった子どもたちのことを考え、立ち直る糧としてほしい。

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