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私の被爆ノート

あまりの光景、心が凍る

1996年2月29日 掲載
中川 哲雄(66) 爆心地から約1.8キロの三菱兵器本原地下工場で被爆 =長崎市三ツ山町、恵の丘長崎原爆ホーム別館入所=

十六歳の私は、いつものように魚雷製造工場で働いていた。工場は生産増強と空襲に備え、本原地区の谷間に建設されたものだった。

午前十一時二分、外の風景が真っ白になった。「ドーン」という爆音と強烈な爆風で建物は一瞬にして倒壊した。ガラス片が体中に突き刺さって苦しむ同僚や、屋外で作業中に大やけどを負った人の姿が痛々しかった。浦上天主堂の裏手にあった実家が気掛かりだった。だが、助けを求める人たちを見殺しにするわけにもいかず、近くの山林に避難させた。廃虚と化した浦上の地が眼下に広がり、あちこちで火の手が上がっていた。

「遅かった」。天主堂一帯はまさに生き地獄。人間や建物などすべてが焼き尽くされていた。爆心地から一キロも離れていなかった実家は既に焼失。みんなで栽培していたナスやカボチャもすべて灰。あまりの光景に心が凍った。家族の名前を呼びながら、くすぶり続けるかわらを払いのけたが、兄弟の骨さえ見つからなかった。この日、父親ら四人を失った。

翌日の十日夕、矢上村の親類宅にたどり着いた。再会を喜んだのもつかの間、八月中に、ひん死状態だった母親と六歳の弟が次々と亡くなった。その後、島原に疎開した。

生き残った姉は高熱を発し、体中に被爆症状の赤い斑点(はんてん)が現れた。歯茎の出血も止まらなかった。懸命に看病したが、思いは通じなかった。

「死んでいった家族のために、しっかり生きらんばいかんよ」

この言葉を残して姉は九月に息をひきとった。一発の原爆で家族九人のうち父母や兄弟、姉ら七人を失った。
<私の願い>
あの日の光景は生き地獄だった。家族を失った苦しみや被爆の惨状は言葉で言い尽くせない。いまだに忘れられない。原爆は絶対に繰り返してはならない。

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