白倉 サク
白倉 サク(88)
爆心地から約1.8キロの御船蔵町の自宅で被爆 =長崎市三ツ山町、恵の丘長崎原爆ホーム入所=

私の被爆ノート

他人を助ける余裕なく

1996年2月23日 掲載
白倉 サク
白倉 サク(88) 爆心地から約1.8キロの御船蔵町の自宅で被爆 =長崎市三ツ山町、恵の丘長崎原爆ホーム入所=

西坂国民学校(現在の西坂小)の裏門近くに住んでいた。原爆投下の前、米軍機から「日本良い国、強い国、七月・八月灰の国」と書かれていたビラがまかれたことを覚えている。

八月九日。主人は疎開先を探しに島原に行っていた。わたしたちは空襲警報が解除され、防空ごうから親子七人で自宅に帰り、おにぎりを十四個作った。おなかをすかせた子供たちに「お昼になってからね」となだめていた。その時、B29爆撃機が頭上に飛んできた。ほんの一瞬、ピカッと光った。爆風で台所道具や壁に掛けてあった柱時計などが一斉に吹き飛び、子供たちも壁にたたきつけられた。

子供たちは擦り傷などを負ったが辛うじて無事だった。親子励まし合いながら防空ごうに避難。しかし、恐怖感が募り金比羅山を目指した。子供二人を抱え上げひたすら登った。途中、大やけどを負った人々が私たちの足を引っ張り、助けを求めてきた。わが子を守るのに必死で他人を助ける余裕は全くなかった。

頂上近くから眼下を眺めると、八千代町のガス会社が燃え盛っていた。ものすごい火の勢いとともに、建物が壊れていく音が間近に聞こえた。逃げてきた人々は「山で殺される」とささやき合っていた。ひん死状態の重傷者らが苦しそうに水を求めていたが、「水をやってはいけない」と注意され、何もできなかった。妊婦の姿もあった。大けがをした近所の子供たちがいたので、痛み止めのおまじないをしてやった。火が収まったので山を下り、防空ごうで一夜を過ごした。

翌日はさらに悲惨だった。死臭が漂い始め、電車通りには黒焦げの死体が無数に転がっていた。あまりに恐ろしい光景。「子供たちに見せられない」と思い、夜を待ってから道の尾駅に移動した。
<私の願い>
あの日の光景が頭の中に焼き付いて離れない。特に若者たちに、五十一年前、長崎で起こった悲惨な出来事をきちんと知ってほしい。物資が欠乏した戦後の生活も苦しかった。戦争は二度と繰り返してはならない、と毎日願う。

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