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私の被爆ノート

青白いせん光、音に驚く

1996年2月15日 掲載
尾畑 正勝(77) 爆心地から約1.5キロの三菱長崎造船所幸町工場で被爆 =長崎市入船町=

私は二十七歳だった。工場で船の部品を削っていた。すると青白いせん光がピカッと縦に走り、ドーンという音に驚いた。

「もう、おしまいか」。そう思った瞬間、反射的に腹ばいになった。粉々になったスレートがわらが頭や背中、足などに落ちてきた。起き上がって辺りを見回すとだれもいなかった。工場は外壁のトタンがはがれ、屋根も吹き飛ばされ、鉄柱だけが残っていた。

富永さんという人と聖徳寺(銭座町)の下の防空ごうを目指して走ったが、一面がれきの山。思い通りに走れなかった。五、六カ所あった防空ごうは既にいっぱい。学徒報国隊を連れて来ていた同年の江口君と二歳くらい年上の中山さんは、熱線で顔や体の皮膚がむけて一・五倍くらいに膨れ上がり、上半身の皮膚はベルトの所で止まってだらりと垂れ下がっていた。上半身裸で防空ごうの外にいる時に被爆したという。二人は二、三日後に亡くなったと聞いた。

飽の浦町(現入船町)の自宅=爆心地から三・四キロ=が心配になり、二人の少年工と一緒に、半壊した兵器工場を通って浦上川に出た。はだしだったので、太陽と焼けた熱でかわらが熱かった。爆風でつぶれた稲佐商店街を見ながら当時、稲佐国際墓地の上にあった稲佐公園に着くと、大勢の人が避難していた。家に着いたのは、午後五時半ごろだったろうか。

玄関のガラス戸は吹き破れ、かわらも飛んでいた。妻と長女、母、同居していた三人の妹も無事で安心した。(父は三菱広島造船所に単身赴任中で工場から離れた寮にいて無事)。妻に背中を洗ってもらうと、ひりひりした。初めてスレートがわらでけがをしていることに気が付いた。工場内に居たおかげで、ほかにけがはなく、今のところ原爆症の症状も出ていない。

広島に新型爆弾が落ちたことは前日うわさに聞いていたが、それが原子爆弾だということは知らなかった。あの日は何が起こったか分からないままだった。
<私の願い>
戦争は欲と欲とのぶつかり合い。予告なしに核が使われ、庶民が一番犠牲になる。世界の人々と手をつなぎ、戦争を起こさないようにしなくては。被爆体験のない戦後生まれの学校の先生たちも含め、若い人に平和の大切さを考えてもらいたい。日本政府は、特にアジアの人たちに迷惑を掛けたことを口先だけでごまかさず、きちんと対応してほしい。

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