旧制中学五年生(十六歳)だった。第二精密工場で魚雷の部品の検査工として勤務。「あと一時間で弁当だ」と思った矢先だった。
「ビシッ」という音がして地面が揺れ、火の玉が襲いかかり、失神していた。どのくらいたったか分からないが、木やガラスの落下音で気がつくと、コンクリートに横たわっていた。げたは吹き飛ばされ、右腕には力が入らなかった。
なだらかな丘に避難した。半壊し屋根に大きな穴のあいた大橋工場が見えた。辺りには黒煙が立ちのぼり、真っ赤な火柱が上がっていた。「大型爆弾が何発も落ちたのか」と錯覚するほどの惨状だった。
ポタポタと血が落ち、自分の頭にかわらが刺さっているのに気付いた。不思議と痛みはあまり感じなかった。腹巻きにしていたサラシの布を巻いた。約十人が、土色の顔で髪を振り乱し、あえぎながら次々に丘にはい上がってきた。皮膚は黒ずみ、ベロベロに焼けただれ、血が滴り落ちていた。怖くて正視できなかった。
丘を下りた。「水をくれ」と指を震わせる人や口から泡を噴いて苦しむ馬を見ながら歩いた。
本原を越え、五島町の自宅を目指して歩き始めた。浦上川の対岸から熱風が吹いてきた。足は棒のようで、のどは渇き空腹だった。死体や負傷者を踏まないようにするのが、精いっぱいだった。午後九時ごろ町内の防空ごうに着くと、父、母、弟、二人の妹も無事だった。
何日かたって、自分の体に脱毛や歯茎からの出血など原爆症の症状が表れた。頭の傷をみせに救護病院(新興善小)に行ったが、自分よりはるかに重症の患者が多いのに耐えられず、そのまま帰って来た。その後も頭の傷からガラスの破片や石が出てきて、傷口がふさがったのは翌年一月末ごろだった。
既に十六歳にもなっていたのにだれにも手を差し伸べることができなかった。今、自分だけが生き残っていることが心の負い目になっている。
<私の願い>
若い人は、今の生活を大事にしながら、五十年前にあったこと、中国や朝鮮、東南アジアに大きな迷惑をかけたことを体験談や書物を通して知ってほしい。そして自分たちの力で平和を大きく育て、戦争を二度と繰り返してはいけないことを何らかの形で表してほしい。