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私の被爆ノート

父の遺体の軽さに涙

1996年2月1日 掲載
柿本 直人(66) 爆心地から約1.3キロの三菱兵器大橋工場で被爆 =神奈川県横浜市=

被爆五十一周年。しかし、核問題をめぐる情勢は依然、混とんとしている。多くの犠牲で大きな教訓を学んだはずの人類なのに…。被爆者の高齢化が進んでいる。今、伝えなければ、今、残さなければ。被爆者の思いは募る。忘られぬ一人ひとりのあの日を毎週一回、聞き書きする。
変わり果つ/父のなきがら/抱きあげて/その身の軽さ/いとど悲しき―原爆で父親を失った悲しみを自著歌集「灰の街長崎」で詠み上げた。

原爆投下のあの日。工場の窓枠がオレンジ色に光った瞬間、「ワッ」と爆風が空気を切り裂いた。屋根の鉄板などが一斉に落下。なんとか自力ではい出すと、鉄骨が見るも無残に折れ曲がっていた。生き埋めの作業員が「お母さん、助けて」と泣いていたが、どうすることもできなかった。避難した防空ごうで、おなかにガラス片が突き刺さっている人から「抜いてくれ」と頼まれ、抜くと血を噴き出して息絶えた。

実家があった橋口町(爆心地から〇・四キロ)に向かった。山里の丘にたどり着くと、爆心地一帯が燃え盛っていた。川を下った。水面にはやけどで膨れ上がった死体が浮かび、かき分けながら実家を目指したが、激しい炎に行く手を遮られた。黒煙のなか、廃虚と化した浦上天主堂がぼんやりと見えた。その日は水の浦町の姉の家に泊まった。

翌日、実家一帯はまだくすぶっていた。死臭が鼻をついた。焼け跡には変わり果てた父と姉の遺体があった。ただぼう然と荼毘(だび)の煙を見上げた。原爆投下時刻から三分後を指したまま壊れた父の遺品・懐中時計を握り締め、この日から、死に物狂いで母を捜した。しかし見つけ出すことはできなかった。

原子野と化した爆心地には「即刻都市より退避せよ」と書かれた降伏勧告のビラがまかれていた。片っ端から引き裂き、踏みつぶしたが、肉親を失った悲しみで涙が止まらなかった。
<私の願い>
原爆では子供や女性、お年寄りなど多くの非戦闘員が犠牲となったことを忘れないでほしい。核兵器は人類を破滅に導く。次世代を担う若者たちには、半世紀前の被爆地・長崎の惨状を必ず知ってほしい。

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