長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています
中尾百合子さん(86)
被爆当時13歳 玉木高等実践女学校1年 爆心地から4キロの長崎市三ツ山町で被爆

私の被爆ノート

出産控えた母戻らず

2019年01月10日 掲載
中尾百合子さん(86) 被爆当時13歳 玉木高等実践女学校1年 爆心地から4キロの長崎市三ツ山町で被爆

 出産を間近に控えた母はその日に限って、三ツ山町の自宅から下山した。再び戻ることはなかった。
 1945年6月に父が陸軍に召集され、母と3人の弟と一緒に暮らしていた。長女として、昔から農業をする母に代わり家事の多くを任された。
 8月9日。家から玉木高等実践女学校に通学している時に空襲警報が鳴り、すぐに引き返した。その頃の母は既に臨月。祖母の初盆も迫っており家の用事を済ませることに忙しそうだった。「税金を払いに行ってくるけん。きょうだい仲良く留守番しておくように」。そう言って、長崎市中心部に行ってしまった。
 母が自宅を出て、昼食の準備に取り掛かる。ジャガイモとカボチャの煮しめを作るためにいろりの上に鍋をつり下げ、炊いていた。突然、台風のような風が家の中を吹き抜けた。三男を連れ慌てて外へ出ると、木々がなぎ倒されていた。家の中では障子が吹き飛び、舞い上がったいろりの灰が煮しめにかぶっていた。
 間もなく、裏山にまきを取りに行っていた長男と次男が帰宅した。あの激しい風は空襲だったのだろうかと次第に危機感が募り、4人で近くの防空壕(ごう)へと避難。真昼にもかかわらず空は薄暗く、真っ赤な太陽だけが熟れた柿のように浮かんでいた。壕内にいた近所の人に、長崎に大きな爆弾が落ちたと聞かされた。
 いくら待っても母は戻ってこない。11日、近所の警防団の人たちに連れられて捜しに向かった。山を下り、中心部に近づくにつれて街並みは廃虚に変わっていく。爆心地近くの岩屋橋に着くと、遠くの方で大きな炎が上がっているのが見えた。異臭もした。死体を燃やしているのだと警防団の人が教えてくれた。
 「あの中に母もいるのかもしれない」。母の死を覚悟すると悲しく、寂しかった。でも当時は弟たちの面倒を見ることに精いっぱいだった。両親なしで暮らしていくことへの不安の方が大きかった。
 実家が農家だったため幸いにも食料に困ることはなかった。自宅で毎日、弟3人にご飯を食べさせた。父が戻ったのは終戦からちょうど1カ月後の9月15日。「母ちゃんが街に行って死んだ」。そう伝えると、父は何も言わずに涙を流し、仏壇の前でうなだれた。出産が近づくにつれて、ほぼ外出しなくなっていた母。「もしもあの日じゃなかったら」。そんな思いが今も拭えない。

<私の願い>

 原爆の歴史がどんどん忘れ去られている。その中で自分の被爆体験を残し、誰かに伝えたいと感じ、初めて手記を書いてみた。世界ではさまざまな事件が起きているが、戦争だけは絶対に起きてはならない。平和な日本を望んでいる。

ページ上部へ