釜崎照子さん(80)
被爆当時7歳 小島国民学校1年 爆心地から4.1キロの高平町で被爆

私の被爆ノート

「死ぬかも」戦争実感

2018年11月29日 掲載
釜崎照子さん(80) 被爆当時7歳 小島国民学校1年 爆心地から4.1キロの高平町で被爆
 
 小島国民学校の1年生。学校に通っていた記憶がないので、夏休みだったのだろう。
 8月9日は、祖母と2歳の妹と高平町の自宅にいた。近くに住む伯母が持ってきたふかしたジャガイモを食べようとしていた時、まるで音が鳴り響くかのように、パシーッと辺りが光った。「今の何?」と思う間もなく、ドーンと衝撃が来た。
 気が付いた時にはあおむけに転がっていた。祖母に「はよ起きらんね」と声を掛けられ、起き上がった。妹は部屋の隅でぐずぐずと泣いていた。幼い時から、日本が戦争状態にあるということは分かっていたが、初めて「もう死ぬかもしれん」と思った。
 とにかく防空壕(ごう)へ行こうと向かったが、民家の壁が飛んだり倒れたりしていたため、いつもより遠回りをした。防空壕にはけがをした人や洋服が破れている人、近所の人もよその人もいっぱいいた。何日かたって外に出ると、防空壕が高台にあったため、街中がゆらゆらと揺れるように燃えているのが見えた。壕の中でどのように過ごしていたのかは覚えていない。
 終戦になり、防空壕から自宅に帰ることになった。玉音放送は聞いていないが、自宅へ帰る時に周りの大人が戦争が終わったと教えてくれた。その場にいた友達と「もう絶対せんって。よかったね」と喜び合った。
 終戦から数日後、築町市場で漬物を売っていると聞き、祖母と出掛けた。市場は焼け跡になっていて、倉庫はまだくすぶっているような感じだった。付近では焼けた材木を井形に組み、遺体を焼いていた。そばにはむしろの掛かった大八車がたくさん並んでいた。祖母が何げない様子でむしろをめくると、真っ黒焦げになった遺体が山ほど積み重なっていた。祖母はすぐにむしろを掛け直したが、幼かった私にもその光景は目に焼きついた。普段から街中へはあまり出掛けなかった。被爆直後の長崎の記憶はこのくらいしかない。
 9月、米軍が長崎に上陸した。背が高く、帽子の形が日本軍とは違っていたので、恐怖感というよりは珍しさの方が強かった。ジープが浜町を通るのを見計らって「ガムをもらいに行こう」と友人たちと出向き「ハロー」などと呼び掛けた。今、難民の子どもたちが物をもらっているのをテレビで見ると「ああいうことを私たちも経験したのだな」とつくづく思う。
 
<私の願い>
 
 日本は良い国と言われるが、原子炉があることを考えたら「原爆も持ってるんじゃないの」と心の中では思ってしまう。あと何年生きられるか分からないけど、平和なままであってほしい。戦争は絶対駄目。身近な人と仲良くすることが大事。

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