古賀力さん(87)
被爆当時14歳 県立長崎中3年 爆心地から2.5キロの長崎市西中町(当時)で被爆

私の被爆ノート

死体起こし親族捜す

2018年09月20日 掲載
古賀力さん(87) 被爆当時14歳 県立長崎中3年 爆心地から2.5キロの長崎市西中町(当時)で被爆
 
 戦争の最後に経験した原爆は、青天のへきれきのような出来事だった。
 城山町で祖母と暮らし、週2、3回、家族が住む大村から食料などを運ぶために列車で行き来した。鳴滝町の県立長崎中は特別教室を改装して三菱長崎造船所が疎開した(ナ)工場。学徒動員で船の部品などの製品検査を担当した。
 あの日は午前10時ごろ、飽ノ浦町の造船所へ製品を運ぶよう指示された。学友5人と大八車を押して出発したものの、校門前で車座になって「早弁」を食べた。新大工町、諏訪神社前を通り、勝山国民学校から八百屋町に右折し、中町天主堂付近に差し掛かった頃、小休止をとった。すると、金比羅山方面からB29特有の爆音が聞こえ、白い落下傘が三つ落ちるのが見えた。
 「あっ」。声を出した瞬間、閃光(せんこう)が走り、周囲は真っ白になった。少し間があっただろうか。猛烈な爆風がザーっと押し寄せたが、あとは覚えていない。その後、学友たちと無事を確かめ合い、立山町の横穴防空壕(ごう)に入ったが、けが人が続々と担ぎ込まれたので、(ナ)工場に戻った。
 教官から帰宅を指示された。西山から金比羅山に登り、穴弘法を経て、坂本町付近から浦上一帯を見ると、三菱長崎製鋼所の巨大な建物がつぶれていた。城山町も学校以外の建物はなくなっていた。
 山の尾根沿いに下る途中、黒い雨が降り、服が汚れた。雨に交じって落ちてきた紙くずの中に、投下宣伝ビラがあった。「日本国民に告ぐ。即刻、都市より退避せよ」-。大変なことが起きたと怖くなった。
 本原の神学校(当時は浦上第一病院)、三菱造船船型試験場、住吉トンネル工場、浦上水源地を経て、長与駅に着いた。止まっていた救援列車の炭水車に飛び乗った。諫早で降り、歩いて大村の家に着いたのは夜中。待っていた母の前で座り込んだ。
 次の日、祖母と叔父一家を捜すために、大叔父と長崎に向かった。城山地区一帯の死体を一体ずつ起こして、顔を確かめながら歩き回った。
 12日、叔母といとこ2人が大村に逃げて来た。「祖母は台所で昼食の支度をしていた。助けられずごめん」と叔母から聞いた。その後、家の焼け跡から骨と化した下半身と干物のようになった上半身を見つけた。終戦が告げられた後も、長崎や諫早、川棚の収容所を捜し回ったが、叔父の行方は分からない。
◎私の願い

 戦争はナンセンスだ。人間の尊厳がすべて否定される。自分たちだけが助かるという闘争の時代は終わった。核抑止力は考えられない。熱線と放射能の被害は核の破壊力を体験しないと分からない。体が生きながら腐っていくようなものだ。

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