当時5歳。朝から出ていた空襲警報が解除になった後、9歳の姉と二人で伊良林町2丁目の自宅から鍛冶屋町にあった東洋軒製パン所にお使いに行った。しかし、製パン所では空襲警報の影響でパンを焼いておらず、手ぶらで自宅に引き返していたところ、寺町の延命寺付近で航空機が上空を通過していった。
「怖いから隠れよう」。私が姉にそう言っているうちに目の前が黄色い閃光(せんこう)で包まれた。「お母ちゃん」。思わず母を呼んだ。「伏せんね」と姉が言うので手を伸ばして地面にはうように伏せていると、爆風が襲ってきた。一帯は延焼防止のために建物が撤去されていて、爆風から私たちを遮る物は何もなかった。
爆風がおさまると、二人で延命寺に逃げ込んだ。入り口付近に防火用水があったので、姉に言われて頭から何度も水をかぶった。しばらく二人でぼうぜんとしていると、血だらけの人や衣服がぼろぼろに破れた人たちが次々に逃げ込んできた。姉と二人、「家に帰ろう」と、寺の脇にあった石段を上った。途中の道には馬が泡を吹いて倒れていた。爆風の影響なのか、木の下にはたくさんのセミが落ちていたのを覚えている。
石段を上ると防空壕(ごう)があったが、人がいっぱいで中に入れてもらえなかったので、そのまま自宅まで急いだ。自宅は現在の亀山社中記念館の隣にあった。ガラス戸が壊れ、家財道具が倒れていたが、家族は自宅の裏にあった防空壕にいて無事だった。私は帰宅してからようやく、左腕を真っ赤にやけどしていることに気付いた。原爆の熱線を浴びたのだろうがその瞬間は覚えていない。姉の言うことを聞いてすぐに水を浴びたことで、ひどくならずに済んだのだろう。数日で痛みはなくなった。
自宅は長崎の街がよく見渡せる場所にあったが、しばらくは煙で街の様子は分からなかった。だが、夜になると、街並みが炎に照らされて浮かび上がり、炎は刻々と広がっていった。その光景は頭に焼きついている。
数日後、寺町の辺りを歩いていると、至る所で遺体を荼毘(だび)に付す光景があった。今思えば、とても悲しい光景だったが、その時は人々が悲しんでいるように見えず、戦争や原爆という異様な雰囲気の中、みんなが心ここにあらずという状況と幼心にも思った。
<私の願い>
原爆の恐怖はもう二度と味わいたくない。原爆が使われれば、世界が破壊されてしまうのは誰もが分かっていること。人々が「核兵器廃絶」「戦争反対」と訴えないでもいいような世の中になってほしい。