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平野 幸男(82)
被爆当時10歳 稲佐国民学校4年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

水飲み死んだ同級生

2018年04月19日 掲載
平野 幸男(82) 被爆当時10歳 稲佐国民学校4年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目(当時)で被爆
  当時10歳で稲佐国民学校の4年生。父は私が2歳の時に上海で戦死。8月9日は家で姉がミシンを踏み、姉の子どもは畳で寝ていた。母は花屋を営み、仕入れに福田方面の農家へ行って不在だった。
  私は同級生3人と家の前に立って、氷屋から買ってきていた氷を割り、湯のみに入れてがりがりかじっていた。その時、飛行機の音がブンブン鳴り始めたが、どこを見ても機体が見つからない。空を見ると、浦上方面の上空に三つの落下傘が見えた。
  じっと動かないように見える落下傘を不自然に思い、急に怖くなった。とっさに、自宅と貸家が2軒並ぶ間に飛び込んだ瞬間、すごい爆風で奥に吹き飛ばされた。その時、黄色や緑、白色の煙幕に覆われた。何分たったか分からない。けがはなかったが、泥や屋根瓦に体が埋まっていた。
  自力でそこから抜け出すと、姉が自分の名を呼んでいた。姉の子どもは家で飛ばされたらしいが、無事。外で一緒に氷を食べていた友人2人は死んでいた。後の1人はどうなったのか覚えていない。
  当時は敵機が、自宅に爆弾を落としたと思っていた。安全な場所へ逃げようと、姉と姉の子どもと防空壕(ごう)へ走った。一妙院の下にある防空壕で、その後、母と働きに出ていた2人の姉にも合流した。
  防空壕の前にはむしろが敷かれ、けがをした人たちが横たわっていた。11日、そこに山口という同級生が担がれてきた。全身やけどで、ふうふうと息をしていた。「山口じゃないか!」と声を掛けたが返事はない。特にやけどがひどい背中を見ていると何か動いている。うじ虫だった。
  その場にいた消防団員から「そこの木の枝を折ってこい」と言われた。何をするか分からずぼんやりしていると「うじ虫をとってやるとやっか」と言われた。折った枝を箸のように使い一生懸命、うじ虫をつまんだ。まだ生きている人にうじ虫がわく状況に戸惑い、ただただ怖かった。
  山口は「水を」と繰り返していた。消防団員は「飲ませたら死ぬぞ」と言って、飲ませてくれなかったが、13日に「もういいぞ」と許可が出た。近くの小川に行き、湯のみで水をくみ、飲ませると、山口は一気に飲み干し、2、3分後に何か言って息を引き取った。その言葉が「ありがとう」だったのか分からない。目の前で同級生が亡くなり、ショックだった。

<私の願い>

 平和な世の中をつくるためには、相手の身になってものごとを考えることが必要。人間同士、考えの違いや衝突は必ずある。少しだけでもいいので相手の気持ちになってみる。そのような他者へのいたわり、心遣いを忘れないでほしい。

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