子供心に、家計が苦しいのは感じていた。私が4、5歳のころに中国・上海へ出稼ぎに行った父は、2年後に失踪。母が働き、姉2人、兄、私のきょうだい4人を養ったが、家賃が払えなかったのか、長崎市岩川町や袋町(当時)など市内の民家で間借りをしながら転々とした。
1945年8月。五島町の民家に暮らして2年ほどがたっていた。9日は登校日。学校に行くと空襲警報が鳴り、すぐ自宅に帰された。家に着いたころには警戒警報に切り替わり、やがて解除。家の中は暑いから外で遊んでいた。
当時私は、B29やグラマン戦闘機など米軍機の音を聞き分けることができた。だからB29の「グワーン」と腹に重く響く音が聞こえた時「あれ、警報は解除されたのに」と不思議に思った。空を見上げると、銀色に輝く機体が1機、かなり高いところを飛んでいた。すぐに家の中へ駆け込んだ。
「あんたは臆病やね」。家の中にいた母に、そう言われたことを覚えている。
ピカッ-。黄色い強烈な光を感じ、目の前がぼんやりとした。どんな音だったのか記憶はない。家は爆風でつぶれた。何とか外に抜け出すと、近所の家がことごとくなぎ倒されていた。母と姉2人も無事だったが、外出していた兄の行方は分からなかった。飼い猫のタマは助からなかった。
周辺には火の手が上がっていたため、家族4人で諏訪神社近くの防空壕(ごう)へ急いだ。道路脇には亡くなった人がごろごろ倒れていたが、感覚がまひして怖いと感じなかった。神社のある高台から町並みを見下ろすと、家々が燃え尽きていた。
壕には朝鮮人も逃げてきていたが、かわいそうに中には入れてもらえず、やけどをした人が入り口近くで「アイゴー」と泣き叫んでいた。壕の外には、割ったカボチャの断面のような濃い黄色の物体が、たくさん落ちていた。子どもの私にはカボチャに見えたが、今考えれば被爆して亡くなった人のケロイド状の皮膚だったのだろう。
兄は9日のうちに、同じ壕へ逃げてきた。けがもなく無事で、家族5人で抱き合った。父が行方不明になって以降、家族全員で喜んだのは、このときが初めてだった。
<私の願い>
被爆体験を思い出したくなくて子どもにも話したことはない。だが昨年姉が亡くなり、きょうだいで存命なのは私だけに。語り継ぐべきだと思った。原爆は人々の生活や命を一瞬でたたきつぶす極悪非道な兵器だ。二度と使ってほしくない。