池田 凌子(82)
被爆当時9歳 北大浦国民学校4年 爆心地から4キロの長崎市大浦川上町(現川上町)で被爆

私の被爆ノート

三つの機影 鮮明に

2018年2月23日 掲載
池田 凌子(82) 被爆当時9歳 北大浦国民学校4年 爆心地から4キロの長崎市大浦川上町(現川上町)で被爆

 長崎への空襲が増え、3年生の終わりに佐賀県嬉野町にある親戚宅に母と6歳下の弟と身を寄せた。疎開先は長崎より田舎に思え、現地の子どもたちにいじめられるのが嫌だった。夏休みに嬉野に来た父に泣きすがり、長崎市大浦日の出町(現日の出町)の自宅に連れ帰ってもらった。1945年8月8日、原爆が落ちる前日のことだ。

 自宅には父と姉2人(8歳上と6歳上)が残っていた。9日午前、姉たちと隣町の知り合いの家を訪ねた。うすを借りて玄米をつくためだ。玄関先で待っていると空襲警報が鳴った。すぐに敵機来襲を知らせる鐘の音も聞こえた。見上げると浦上方面の空に三つの機影が見えた。原爆を積んだ米軍機だったのだろう。今も鮮明に覚えている。

 屋内にいた姉に「中に入り!」と促され、慌てて土間に伏せた。2人の姉が覆いかぶさった時、周囲がピカッと光り、爆風が吹き込んだ。しばらくして帰宅すると、家中のガラスは割れ、足の踏み場もなかった。近所の人から町内共用の防空壕(ごう)に避難するよう言われ、そこで夜を明かした。火災で夜空が真っ赤に染まっているのが見えた。

 父は、自分が経営していた会社に勤めていた男性と自宅で寝た。男性は浦上に住んでいたが、火災がひどくて帰れなかったらしい。翌日、男性が浦上の自宅に帰ると妻と息子は焼け死んでいたそうだ。2人の遺骨を小さな箱に入れて再び戻ってきた。男性は戦後に8歳上の姉と再婚した。

 原爆投下から数日後、家族で嬉野に向かった。「米兵が上陸し、女たちを連れ去る」という話を聞いたからだ。列車に乗れる諫早駅まで歩いたが、途中で疲れ切ってわんわん泣いていると、見知らぬおばあさんがリヤカーに乗せてくれた。嬉野に着いたのは深夜。出迎えた母親は「長崎は全滅と聞いたのでダメかと思った」と喜んだ。嬉野からもきのこ雲が見えたという。

 自分は命拾いしたが、原爆で大けがをした人は多かった。近所の男性がやけどだらけの体にうじを付けたまま、身じろぎもせずに庭先に座っていたのを覚えている。「原爆医療法」で被爆者健康手帳の交付が始まった57年に父が私の分まで取得してくれたが、「被爆者は結婚できない」といううわさがあり「捨ててくれ」と突き返した。父は大事にしまっていてくれて、その後に病気をした時に助けられた。

 

<私の願い>

 戦時中の学校は防空訓練ばかりで、教室より防空壕にいた時間の方が長かった。勉強をしたり、友達と楽しく遊んだりした記憶がない。子どもや孫の世代にあんな思いをさせたくない。戦争は二度と起こしてはならないと思う。

ページ上部へ