ピースサイト 2020年ピースサイト関連企画 2020/03/07 被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・7 のどかな湯江 別世界 1945年3月10日、東京大空襲で焼け出された柴谷(旧姓松本)繁子は、父の古里、長崎県北高来郡湯江町(現諫早市)に、家族3人で向かうことになった。この日はいったん、千葉県で乾パン工場を営む父の知人宅に泊めてもらおうと歩 […] 2020/03/06 被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・6 赤ちゃん失いぼうぜん 大空襲のさなか、荒川に着いた柴谷(旧姓松本)繁子と母は、大勢の避難者がしているように、その場でうずくまった。後ろから避難者が次々と押し寄せ、膝を突いたまま、前の人の尻に肩を押し付け、ずるずると進んだ。空からはゴーゴーと […] 2020/03/05 被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・5 米軍300機 焼夷弾降らす 「B29の大群は、焼夷(しょうい)弾を弾倉いっぱいに積載し、東京湾上三〇〇〇メートルから、水面すれすれを滑空しつつ、下町地区へと向かっていた。アルミの破片を撒(ま)いて、日本軍の電波探知機を無能にし、かろうじてとらえた […] 2020/03/04 被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・4 早く平和を 月に願う 東京大空襲・戦災誌によると、米軍による東京への初空襲は1942年4月18日。その後、約2年半は東京上空に米軍機は姿を見せなかったが、44年11月から本格的に空襲が始まった。 ある日、柴谷(旧姓松本)繁子が市ケ谷の参謀 […] 2020/03/03 被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・3 「お国のため」陸軍に 1937年春、柴谷(旧姓松本)繁子は小学校を卒業し、巣鴨女子商業学校に進学した。その年の7月、中国・北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突。日中戦争が始まった。 繁子はそろばんや裁縫などを学びながら、弓や謡曲にも […] 2020/03/02 被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・2 誕生日に二・二六事件 柴谷(旧姓松本)繁子の幼いころの記憶は、富山県の実母キヨの古里から始まる。母は繁子を生んで約1年半後の1926年7月に病死。長崎県北高来郡湯江村(現諫早市)出身の父、大蔵は船に乗って商売をしていたようで、繁子は母の実家 […] 2020/03/01 被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・1 火の粉の帯、走る 柴谷繁子(しばたに・しげこ)さん(95)=長崎市= 3月10日は「陸軍記念日」だった。1905年、日露戦争の奉天(現中国・瀋陽)会戦で日本軍が勝利した日。その40年後、日本の首都・東京は壊滅的な被害をこうむることになる。 45年3月9日、20歳の松本(現姓柴谷)繁子は […] 前のページへ<23456 ▶ 関連企画 原爆・平和に関する特集記事を掲載しています。 ▶ 関連記事 原爆・平和関連の記事を掲載しています。 ▶ 私の被爆ノート 被爆者の高齢化と被爆体験の風化が深刻な問題となっています。1996年から長崎新聞本紙に掲載してきた「忘られぬあの日 私の被爆ノート」を掲載しています。 ▶ TESTIMONIES OF THE ATOMIC BOMB SURVIVORS (「私の被爆ノート」英語版) ▶ 平和への誓い 8月9日の崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典における「平和への誓い」を掲載しています。 ▶ ナガサキ・アーカイブ(外部リンク) 長崎原爆の実相を世界につたえる多元的デジタルアーカイブズです。被爆ノートの一部を地図上でもご覧いただけます ▶ ローマ教皇 来崎 2019 2019年11月24日に長崎への訪問されたローマ教皇(法王)。今回の訪問に関する県内の受け入れ準備や核廃絶を巡る人々の期待など長崎新聞に掲載されたニュースを集約。 ← ピースサイトへ戻る ページ上部へ