ピースサイト 2017年ピースサイト関連企画 2017/07/25 言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 6 時間超え 実相近づく 日米の調査団が被爆から2カ月後に撮った長崎の写真の多くを、深堀好敏(88)は「復興写真」と捉えている。本当の意味での「原爆写真」は「山端写真だけ」だという。 旧陸軍カメラマンだった山端庸介は、原爆投下翌日の1945年 […] 2017/07/24 言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 5 住民の記憶 写真解明 深堀好敏は1970年から74年まで、被爆前の町並みを地図で復元する長崎市の事業に携わった。米軍が原爆投下前に撮影した航空写真を基に真っさらな紙の上に地図を描き、家屋の元住民を一軒一軒特定。生き残った元住民に手紙を送り、 […] 2017/07/23 言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 4 表の秋月、裏の深堀 「腐れ縁って言うんですか。ずっと一緒にいたから特別な結び付きみたいなものがあったんです」。1953年4月、深堀好敏=当時(24)=が聖フランシスコ病院で働き始めて半年が過ぎたころ、同病院前身の浦上第一病院で被爆した医師 […] 2017/07/22 言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 3 妻が理解、活動に没頭 1952年10月、深堀好敏は、原爆で全壊した浦上第一病院の焼け跡に建てられた聖フランシスコ病院で、事務職員として働き始めた。当時23歳。そこで出会ったのが同じ年の看護婦、瀬下文子だった。 文子は地元大村の国立大村病院 […] 2017/07/21 言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 2 姉の最期 看取れず 9人きょうだいの次女だった姉千鶴子は、自営の八百屋で忙しい母ヨシノに代わってきょうだいの面倒を見ていた。「とにかく面倒見がよくてね。当時、長女と兄2人は家を出ていたから母親のように下のきょうだいをしつけていた。よく声を […] 2017/07/20 言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 1 姉よ弟よ無事でいて 1945年8月10日朝。深堀好敏=当時(16)=は、動員先の長崎市矢の平町の県疎開事務所から、路面電車の軌道沿いに北へと急いでいた。親戚宅にいた2歳上の姉千鶴子と、三菱長崎兵器製作所大橋工場に動員されていた2歳下の弟輝 […] 2017/03/09 名なき いしぶみ 被爆無縁仏をめぐって 下 移設 ひと言もない「原爆」 思い 受け継がれるか 2016年8月5日。元村一喜楽会(もとむらいちきらくかい)は、雑草を刈り取って清掃した慰霊碑の前で、被爆無縁仏の慰霊祭を営んだ。「今まで荒れ放題のままで申し訳なかった。安らかにお眠りください」。約20人が手を合わせた。 […] 2017/03/08 名なき いしぶみ 被爆無縁仏をめぐって 中 時津・疱瘡墓の行方 人が寄り付かぬ場所 建立の慰霊碑 雑草に覆われ 「長崎原爆戦災誌」によると、当時の時津村では、時津国民学校と萬行寺が被爆者の主な救護所となった。2カ所で合計879人が収容され、107人が死亡。84人が土葬されたという。土葬場所の一つが、元村郷の疱瘡(ほうそう)墓だ。 […] 2017/03/07 名なき いしぶみ 被爆無縁仏をめぐって 上 時津・元村一喜楽会 伝染病死者の墓に埋葬 20年前の証言集で知る 長崎原爆当時、多数の負傷者が爆心地から約6キロ北にある時津にたどりついて命を落とした。その中には江戸時代に伝染病死者を葬った「疱瘡(ほうそう)墓」に埋葬された人々も少なくない。疱瘡墓に由来する無縁仏の慰霊碑は、長い間荒 […] 前のページへ<12 ▶ 関連企画 原爆・平和に関する特集記事を掲載しています。 ▶ 関連記事 原爆・平和関連の記事を掲載しています。 ▶ 私の被爆ノート 被爆者の高齢化と被爆体験の風化が深刻な問題となっています。1996年から長崎新聞本紙に掲載してきた「忘られぬあの日 私の被爆ノート」を掲載しています。 ▶ TESTIMONIES OF THE ATOMIC BOMB SURVIVORS (「私の被爆ノート」英語版) ▶ 平和への誓い 8月9日の崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典における「平和への誓い」を掲載しています。 ▶ ナガサキ・アーカイブ(外部リンク) 長崎原爆の実相を世界につたえる多元的デジタルアーカイブズです。被爆ノートの一部を地図上でもご覧いただけます ▶ ローマ教皇 来崎 2019 2019年11月24日に長崎への訪問されたローマ教皇(法王)。今回の訪問に関する県内の受け入れ準備や核廃絶を巡る人々の期待など長崎新聞に掲載されたニュースを集約。 ← ピースサイトへ戻る ページ上部へ