ピースサイト 2005年ピースサイト関連企画 2005/12/28 戦争の記憶 13(完) 波静かな大村湾の入り江に面した東彼川棚町小串郷に、川棚臨時魚雷艇訓練所が開設されたのは一九四四年五月。魚雷や機雷を装備した水雷艇の搭乗員を養成する海軍水雷学校(神奈川県横須賀市)川棚分校の名目だったが、間もなく小型高速特 […] 2005/12/14 戦争の記憶 12 外国人抑留 長崎から阿蘇の山中に 「今日から自由に外出することはできない」。長崎市本河内町の聖母の騎士修道院にやって来た四人の警官が、ポーランド人修道士ローマン・クエチェンさん(91)らに告げたのは一九四一年十二月八日。日本軍がマレー半島に上陸、真珠湾の […] 2005/11/11 戦争の記憶 11 宇久島空襲 “報復”で少年2人犠牲 終戦間近の一九四五年七月七日、宇久島の平村(現在の北松宇久町)が米軍機の空襲を受け、少年二人が死亡した。だが史実を証明する資料はほとんど残っていない。 町郷土誌によると、四三年、宇久島のほぼ中心にある城ケ岳山頂(二五八メ […] 2005/10/28 反核に生きて =秋月辰一郎の足跡= 5(完) 未来へ 「人類愛」の哲学遺言に 「米ソ冷戦が終結してみんな喜んでいるけど、これからが大変だぞ」 一九九二年十月十四日の昼下がり、秋月辰一郎が医長を務める聖フランシスコ病院の待合室。四十年近く同病院の事務職員だった深堀好敏(76)は、秋月との最後の会話が […] 2005/10/27 反核に生きて =秋月辰一郎の足跡= 4 草の根 思想超えた活動理念に 秋月辰一郎が「反核の旅」から戻った翌年の一九八三年二月、主義主張の違いを超えた草の根の平和組織「長崎平和推進協会」が設立された。初代理事長に秋月、会長に当時の長崎市長、本島等が就き、約八百六十人が会員となった。 「小異を […] 2005/10/26 反核に生きて =秋月辰一郎の足跡= 3 世界へ 核戦争の脅威訴える旅 欧州限定の核戦争の危機が叫ばれた一九八二年、世界規模で反核運動の機運が高まった。秋月の新たな「反核の旅」が始まった年でもあった。米・ニューヨークでの「第二回国連軍縮特別総会」。バチカン市国でのローマ法王との謁見(えっけん […] 2005/10/25 反核に生きて =秋月辰一郎の足跡= 2 告 白 声なき声記録し語る 「先生は『どんなささいなことでも記録し、語らなければならない』と話された。証言活動の顔でした」 秋月辰一郎が会長(一九七八―八六)を務めた「長崎の証言の会」の草創期を知る同会の鎌田信子(72)は、記憶をたどりながら語る。 […] 2005/10/24 反核に生きて =秋月辰一郎の足跡= 1 あの日 目の前で息絶える人々 被爆者医療に献身し、長崎の反核平和運動をリードした長崎平和推進協会初代理事長の秋月辰一郎さん(89)が二十日、約十三年の闘病生活を経て静かに息を引き取った。自ら被爆者でありながら、精力的な行動で運動の礎を築いたその足跡を […] 2005/10/08 戦争の記憶 10 銃後の北有馬村 女が防空演習、道路補修 日中戦争が拡大した一九三八年から太平洋戦争の敗戦色が濃くなった四四年にかけ、島原半島東南部の北有馬村(南高北有馬町)の医師、故原口徳寿さんは16ミリカメラで銃後の暮らしを撮影した。召集令状で出征する兵士の見送り風景、留守 […] 2005/10/01 戦争の記憶 9 高島の「4階建て」 終戦の年、激しい空襲 平戸市最南端の宮ノ浦漁港から約一・六キロの距離にある「高島」。十世帯四十人が暮らし、教職員を除き全世帯が漁業で生計を立てている。磯ではイシダイ、クロ、ヒラスズキの大物が釣れることで有名。戦時中、この島に沿岸防衛のための海 […] 12345次のページへ> ▶ 関連企画 原爆・平和に関する特集記事を掲載しています。 ▶ 関連記事 原爆・平和関連の記事を掲載しています。 ▶ 私の被爆ノート 被爆者の高齢化と被爆体験の風化が深刻な問題となっています。1996年から長崎新聞本紙に掲載してきた「忘られぬあの日 私の被爆ノート」を掲載しています。 ▶ TESTIMONIES OF THE ATOMIC BOMB SURVIVORS (「私の被爆ノート」英語版) ▶ 平和への誓い 8月9日の崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典における「平和への誓い」を掲載しています。 ▶ ナガサキ・アーカイブ(外部リンク) 長崎原爆の実相を世界につたえる多元的デジタルアーカイブズです。被爆ノートの一部を地図上でもご覧いただけます ▶ ローマ教皇 来崎 2019 2019年11月24日に長崎への訪問されたローマ教皇(法王)。今回の訪問に関する県内の受け入れ準備や核廃絶を巡る人々の期待など長崎新聞に掲載されたニュースを集約。 ← ピースサイトへ戻る ページ上部へ