当時、長崎市水の浦町にあった三菱重工長崎造船所研究部実験場で働いていた。四階に職場があり、あの時は計算機を使いながら、「もうすぐ昼休みだな」と思っていた。急に左側の窓から光が差し込み、爆風が窓を割って吹き込んだ。廊下に飛び出すと、木のロッカーが互いにもたれ掛かるように倒れていて、その下にできた空間に腹ばいになった。気が付くと、光を浴びた顔の左半分がやけどのように真っ赤になっていた。下の階にもけが人が多くいた。
薬品倉庫にオリーブ油などがあることを思い出し、塗り薬を作った。やけどをしたほかの人にも塗ってあげたり、近くの防空壕(ごう)まで運んだ。割れたガラスで傷ついた人ややけどを負った人が多く、まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)といった状況だった。
警戒警報が解除になり、本原にあった自宅に向かうことにした。方向が同じ四、五人で一緒に帰った。竹の久保町辺りで浦上川を渡ろうとしたが、川の中にたくさんの人が飛び込んでいて、浮いた遺体をかき分けながら対岸にたどり着いた。一緒に歩いた赤星さんは松山町に自宅があったが、そこには何もなく、結婚したばかりの奥さんの遺体も見当たらなかった。
浦上天主堂を目指して歩いた。路面電車の浦上車庫辺りで、馬車を引いた馬が川の中に落ち、「ひんひん」と鳴きながらもがいていた姿を覚えている。道はなくなっているし、辺りには負傷者と死人ばかりだった。家のあった場所に着くと、両親はけがをして、近くの防空壕に逃げていた。焼け焦げたカボチャなどを洗面器で炊いて食べた。
二、三日して、親せきが迎えに来て、両親を布団ごとリヤカーに乗せて、琴海まで逃げた。私はしばらくして職場に戻り、下宿しながら働いた。配給された野菜などを持って、週に一回は琴海まで歩いて家族に届けた。
海軍の航空兵だった兄はその年の四月に沖縄から出征して戦死。実家に残っていた兄嫁も被爆から一カ月後に亡くなった。当時十カ月だった赤ちゃんは瓦が顔に当たって片目を失った。これほど不幸な家族があっていいのか―と、悲しかった。
(西海)
<私の願い>
どんなことがあっても、人と人が殺し合う戦争は許されない。親も子も、家もなくしてしまう戦争は絶対に嫌だ。世界平和は、家庭の平和や友達と仲良くすることから始まる。